神代長良
くましろ ながよし
生没年不詳
大和守勝利の子で刑部大輔を称す。肥前神埼郡三瀬城主。父の後を継ぎ龍造寺氏と戦うが元亀元(1570)年に和睦、のち龍造寺氏に属して活躍した。龍造寺隆信滅亡後は鍋島直茂に仕え、神代氏は鍋島本藩親類格として四千三百石を知行した。父勝利の遺言に「我に劣らぬ大将」と評されたと伝える。
倉賀野直行
くらがの なおゆき
生没年不詳
左衛門五郎、箕輪衆と呼ばれる上野の国人で倉賀野城主。のち尚行と称す。永禄三年、上杉謙信の上野進出時にその麾下となり、小田原攻めにも参加。北条・武田軍の攻撃によく耐えたが、ついに永禄七年信玄に攻め落とされ越後へ逃れた。
栗林政頼
くりばやし まさより
生没年不詳
次(二)郎左衛門、治部少輔。上杉謙信の家臣で、はじめ越後南魚沼郡樺沢城主。上野での対武田戦や本庄繁長討伐に参加、また元亀2年には同郡浅貝寄居城を築く。御館の乱の際には景勝側につき活躍、坂戸城将となり北条軍の攻撃を防ぎ、戦後荒砥城主に任命された。
来島通総
くるしま みちふさ
1561〜1597
右衛門大夫通康の末子で幼名は牛松、初名は通昌。のち従五位下出雲守。永禄十年に通康の死により家督を嗣ぐが、能島村上氏や河野氏と対立、天正十年三月以降は羽柴秀吉に属し、秀吉麾下の水軍として四国征伐や小田原攻めなどに活躍した。朝鮮の役の際には兄得居通之や弟通年らと渡海するが、慶長の役の際に全羅道鳴梁で李舜臣と戦い、砲弾を浴びて戦死した。
来島通康
くるしま みちやす
1519〜1567
伊予河野氏の家臣で、瀬戸内海を支配していた海賊三島村上水軍の一つ、来島村上氏当主。正しくは村上右衛門大夫通康といい、娘は村上武吉の妻。厳島合戦時には能島(武吉)衆・因島(吉充)衆とともに毛利方につき活躍した。毛利氏の防長侵攻時にも麾下の平岡左近進と村上河内守に軍船百艘・兵二千を添えて派遣し海上警備に協力、後に元就から周防大島西半分を給された。
黒川隆像
くろかわ たかかた
? 〜1551
大内義隆の臣。宗像氏続の子で初名宗像氏雄。伯父黒川隆尚の娘・菊姫を娶り筑前宗像郡宗像神社七十八代大宮司職を継ぐが、宗像を離れて周防の大内義隆の小座敷衆となり、黒川隆像を称した。陶晴賢の乱の際には義隆に殉じ、辞世「夢亦是夢 空猶是空 不来不去 端的の中に在り」を残した。
黒川隆尚
くろかわ たかひさ
? 〜1547
筑前宗像郡宗像神社大宮司・宗像氏佐の子で同社七十七代大宮司職。初名宗像正氏、刑部少輔を称す。陶晴賢の姪で側室の照葉との間に宗像氏貞をもうけた。山口へ赴いて大内義隆の臣となり、吉城郡黒川村に所領を与えられ、それより黒川氏を称した。また多々良を称し、大内氏の「一家」となり、安芸・九州へ出陣した。
黒川晴氏
くろかわ はるうじ
1523〜1599
大崎氏の支族(大崎二大親族)の出自で陸奥鶴楯城主。安芸守のち出家して月舟斎を称す。室町期後期(戦国期)には伊達氏の勢力下にあったが、天正十六年の大崎(中新田)合戦に於いては旧主大崎氏に属し軍師的存在として活躍、伊達政宗勢を撃退したことで知られる。しかし秀吉から小田原攻めへの不参加を咎められて所領を没収された。
黒金景信
くろがね かげのぶ
生没年不詳
上杉謙信・景勝の家臣。御館の乱の際には景勝側につき、以後河田長親らと越中方面の番将や春日山城の留守居役を務める。織田方佐々成政らとの交戦時には越中松倉城将を務め、景勝の出陣を要請した。
黒田長政
くろだ ながまさ
1568〜1623
官兵衛孝高の嫡男で筑後守。松寿丸と呼ばれた幼少期は、信長への人質として長浜で暮らす。このとき荒木村重の謀反が起こり、説得に出向いた父孝高が有岡城に幽閉され、これを疑った信長からあわや処刑されそうになったが、竹中半兵衛の機知により救われたと伝えられる。関ヶ原では東軍に属し活躍、その功により筑前一国52万石の主となる。これ以後は忠実に徳川家に仕えた。
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