舞 兵庫
まい ひょうご
生没年不詳
石田三成家臣。実名は前野忠康。忠勝の子で妻は前野将右衛門長康の娘とされ、前野兵庫(介)・舞野兵庫などとも記録に見える。豊臣秀次に仕え黄母衣衆十三人の一人として活躍、文禄三年の秀次失脚時には石田三成の計らいで伏見屋敷に匿われて難を逃れたという。その後一旦浪人するが後に三成から招かれて家臣となり、三成の佐和山蟄居時は佐和山城から警固に出向いた。関ヶ原の前哨戦・福束城の戦いでは大垣城から救援に向かい、合渡川の戦いでは一隊を指揮して黒田長政・田中吉政勢と戦うが、ともに奮闘及ばず敗れる。関ヶ原合戦以降の消息は不明。
前田慶次
まえだ けいじ
生没年不詳
利家の甥で名は利大(利太)。戦国のかぶき者(奇人)の代表格で、後に穀蔵院忽之斎(ひょっとさい)を称す。そのくせ戦には滅法強く、上杉景勝に仕え名馬松風にまたがって戦場を駆け回ったと伝えられる。特に長谷堂城の戦いでは退却時に奮闘して追撃する最上勢を支え、直江兼続を助けたことで有名。晩年の消息は不明で、米沢で没したとも大和で没したともいう。
前田玄以
まえだ げんい
1539〜1602
後の徳善院(半夢斎)。尾張国出身で、はじめ比叡山延暦寺の僧籍にあったが還俗して織田信忠に仕え、のち秀吉に仕えた丹波亀山城主。本能寺の変の際に信忠の子・三法師(後の秀信)を護って二条城からの脱出に成功。豊臣家五奉行の一人で、秀吉に信任され京都所司代を務め、キリシタンにも理解を示した。
前田利家
まえだ としいえ
1538〜1599
元は織田信長家臣で通称又左衛門。若い頃は武芸に長じ「槍の又左」の異名をとり、母衣(ほろ)衆を務めた。秀吉の藤吉郎時代からの親友で、賤ヶ岳の戦いの際には戦線を離脱し柴田勝家の敗因を作った。豊臣家五大老の一人として秀吉を助け、家康の野望を牽制した加賀前田百万石の祖。
前田利常
まえだ としつね
1593〜1658
利家の四男で母は側室・寿福院。妻は徳川秀忠の娘・珠姫。筑前守のち従三位権中納言。世に小松中納言と呼ばれた加賀前田氏第三代当主。大坂冬の陣の際には真田丸の攻防で失態を冒すが、翌年の夏の陣では奮戦して名誉を挽回。領民からの信頼も厚く、幕府から睨まれないよう鼻毛を伸ばして虚気(うつけ)を演じるなどのエピソードを持つ。
前田利長
まえだ としなが
1562〜1614
利家の長男で通称は孫四郎、肥前守を称す。加賀前田百万石二代目の当主。父利家と共に信長・秀吉に仕え戦功を挙げる。利家の没後関ヶ原の際、家康に母の芳春院を苦慮の末人質として出し、家の安泰を最優先させた。これにより加賀前田藩は幕末まで見事に生き残った。
前田利政
まえだ としまさ
1578〜1633
利家の二男で通称は孫四郎、能登守・羽柴能登侍従を称す。名は利正とも。関ヶ原の際には兄利長と決別、徳川家康からの参陣要請の使者土方雄久を追い返した。戦後失領し夫人と共に京都嵯峨へ赴き、剃髪して宗悦と号し隠棲、大坂の役の際にも傍観の姿勢をとり出陣しなかった。
前田秀継
まえだ ひでつぐ
? 〜1585
利昌の六男で利家の弟、通称右近。越中木舟城主で四万石を領した。天正十二年、加賀へ侵攻した佐々成政との戦いで活躍。佐々平左衛門を竜ヶ峰城へ攻めて敗走させ、引き続き今石動城将となり佐々勢と戦った。のち木舟城主となるが、それも束の間の天正十三年十一月、大地震が起きて城が崩壊、妻とともに下敷きとなって圧死した。
前野長康
まえの ながやす
1528〜1595
宗康の二男で初め織田信長に仕える。通称小太郎、将(勝)右衛門のち但馬守。蜂須賀正勝と義兄弟の契りを結んだとされ、羽柴秀吉の配下として活躍。天正十三年の四国征伐後には但馬出石城五万七千石を領した。その後秀吉の甥秀次の後見役を務めるが、秀次が謀反の罪で切腹させられると連座責任を問われて中村一氏に預けられ、文禄四年八月十九日に切腹した。
真壁氏幹
まかべ うじもと
1550〜1622
はじめ結城氏、のち佐竹氏に属した常陸国真壁城主で通称小次郎、のち安房守を称す。出家後は暗夜軒闇礫斎または道無と号す。塚原卜伝に剣を学び大力無双といわれた剣豪で、一丈もの長さの鉄鋲を打ち付けた六(八)角棒を振り回し、合戦の際には敵兵の馬もろともなぎ倒したという。
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