槇島昭光
まきのしま あきみつ
生没年不詳
足利義輝・義昭の臣で本姓は一色氏。山城宇治槇島城主・信濃守輝元の子で、通称は孫六郎、玄蕃頭を称す。天正元年の室町幕府滅亡後も義昭に従い、紀伊由良・泊から備後鞆の浦に至るまで同行。義昭の謀臣といわれ、のち秀吉に召し出され奏者役となる。豊臣家滅亡後は細川忠興に招かれ豊前にて千石を給され、中津御留守居役を務めた。

牧野成定
まきの なりさだ
1525〜1566
今川義元・氏真の家臣で康成の父。氏勝の子で通称は新二郎、右馬允(左馬允とも)・民部丞を称す。三河牛久保二代城主。永禄四年に吉良義昭に属し、徳川家康(当時は松平元康)に対抗して三河西尾城の守将を務めたが吉良家内紛のため牛久保に退く。義元敗死後は氏真の下を離れ家康に仕えた。永禄八年には酒井忠次とともに吉田城を攻略するなど家康の東三河支配に尽力したが翌年十月二十三日に病没した。

正木時茂
まさき ときしげ
1576〜1632
里見義頼の二男で義康の弟。名は「時堯」とも。通称弥九郎、大膳亮。天正九年九月に大多喜城の正木憲時が里見氏に背き滅びた際、義頼が弥九郎に正木家を継がせた。慶長十九年に里見家は改易され、当主忠義とともに伯耆倉吉に赴く。忠義没後は鳥取藩に仕え、再び故地上総の地を踏むことなく同地で没したという。

増田長盛
ました ながもり
1545〜1615
豊臣秀吉の家臣で通称は仁右衛門、右衛門尉を称す。豊臣家五奉行の一人で行政官としての能力に長け、主に豊臣政権の内政面を担当した。関ヶ原では西軍に属し失領、高野山配流ののち武蔵岩槻の高力清長預けとなる。大坂の陣の際、子の盛次が大坂入城したことから責任を取らされ自刃した。

町田久倍
まちだ ひさます
生没年不詳
薩摩日置郡石谷を領した国人町田氏本宗家忠梅の子で通称助太郎、伊賀守・出羽守を称す。島津氏の一族で忠良・貴久・義久・義弘四代に仕えた薩摩伊集院地頭。永禄十一年、忠良の菱刈攻めに従い軍功をあげ、大隅市山城を与えられる。はじめ義久の奏者、のち義久・義弘の家老を務めた。

松井宗信
まつい むねのぶ
 ?〜1560
駿河今川氏の臣。貞宗の子で通称五郎八、兵部少輔。享禄二年、兄信薫の病没後に家督を嗣ぎ遠江二俣城主となる。永禄三年、今川義元勢の先鋒を務めての上洛途中に尾張桶狭間(田楽狭間)で織田信長の奇襲を受け、奮戦及ばず戦死した。

松岡長時
まつおか ながとき
1564〜1644
通称清右衛門、伊達家譜代の家臣。天正十九年の宮崎の役や文禄の役で戦功を挙げる。一時故あって浪人し、越後の松平忠輝に五百石で仕えるが、松平氏の滅亡後再び伊達家に帰参して物頭を務めたという。

松倉重信
まつくら しげのぶ
1522?〜1586?
弥七郎政秀の子で通称右近、権左衛門(『寛政重修諸家譜』)。名は勝重とも(『増補筒井家記』等)。大和筒井氏の家臣で初め七千石、のち伊賀名張簗瀬城八千三百石を領す。島氏・森氏とともに「筒井の三老」と称され、また島左近清興とともに「筒井の右近左近」とも称せられた。同氏系図によると政秀の二男とされているが、重信と勝重は別人である可能性もあり、詳細は不明。『和州諸将軍傳』では筒井定次に従って伊賀へ赴くが、天正十四(1586)年三月七日に名張城で病没したとし、『寛政重修諸家譜』では文禄二(1593)年七月七日、五十六歳で死去したとする。

松倉重政
まつくら しげまさ
 ? 〜1630
筒井氏家臣・右近重信(勝重)の嫡子で初名は九市郎または孫七郎、のち豊後守。筒井定次に従って伊賀へ赴き、名張八千石余を領した。関ヶ原の際には「大和浪人」として東軍方に付き、井伊直政家中の木俣左京隊に陣借りし、従士が島津家の阿多盛淳を討ち取る手柄を立てたという。関ヶ原合戦後には大和宇智郡二見(五条)一万石の主となる。大坂の陣にも出陣し、戦後四万石に加増され肥前島原に赴くが、厳しいキリシタン弾圧と重税を課したため、後の島原の乱の一因となった。

松倉政秀
まつくら まさひで
生没年不詳
大和筒井氏の一族で添上郡横田郷の領主。通称は弥七郎、島氏・森氏とともに「筒井の三老」と称される。詳しい事績は不明であるが筒井順昭・順慶に仕えたものと思われ、天文二十二年元旦に春日大社に寄進した灯籠が現存しており、実在した人物であることは間違いない。

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