松下之綱
まつした ゆきつな
1537〜1598
今川氏の家臣。介右衛門長則の子で通称加(嘉)兵衛、石見守を称す。はじめ遠江頭陀寺城主。豊臣秀吉がまだ無名の放浪時代に面倒を見た事で知られ、後にその恩を忘れなかった秀吉から大名に取り立てられた。しかし小牧長久手の役では家康側に立ち、最終的には徳川傘下の遠江久野城主となる。

松平清康
まつだいら きよやす
1511〜1535
安祥(安城)松平氏・信忠の長男で通称次郎三郎、三河安祥のち岡崎城主。徳川家康の祖父。若き身ながら国人衆を次々と服属させ、一時三河を制圧した。尾張へ侵攻中の天文四(1535)年十二月五日、織田信光の拠る守山城攻めの際に家臣安部弥七郎に誤って殺された(守山崩れ)。

松平忠吉
まつだいら ただよし
1580〜1607
徳川家康の四男で母は西郷局、妻は井伊直政の娘。幼名福松のち忠康、従四位下侍従、従三位左近衛権中将、薩摩守。東条松平氏の名跡を嗣ぎ、武蔵忍十万石を経て尾張清洲で五十二万石を領した。関ヶ原合戦の際には岳父井伊直政とともに島津勢と激闘を演じ負傷した。慶長九年頃より病に悩まされ、同十二年三月五日、江戸へ出府しての帰途に芝浦で没した。

松平広忠
まつだいら ひろただ
1526〜1549
清康の長男で通称次郎三郎、徳川家康の父。父清康の奇禍によりわずか10歳で家督を嗣ぐが内紛が起き、織田氏に内通した松平信定によって岡崎城を追われる。天文六(1537)年に今川氏の庇護を受け岡崎城を回復して以来織田信秀と戦うが、実質的には今川氏の麾下となる。天文十八(1549)年三月、近臣の岩松八弥によって殺された。

松平康長
まつだいら やすなが
1562〜1632
三河二連木城主戸田弾正忠重の子で徳川家康の家臣。戸田康長ともいう。わずか6歳で家督を嗣ぎ、家康の養女松姫(久松利勝の娘)を娶り松平姓を許される。高天神城攻略時に初陣を迎え、関ヶ原では大垣城を攻略した。最終的には信濃松本七万石の城主に。

松田憲秀
まつだ のりひで
 ? 〜1590
小田原北条氏譜代の重臣で尾張守。小田原攻めの際に秀吉に内通したが露見し、氏直に捕らえられ開城後秀吉に切腹させられた。一説には息子の左馬助秀治に内通を嗅ぎつけられ、小田原城内で詰め腹を切らされたともいう。

松永久秀
まつなが ひさひで
1510〜1577
大和信貴山・多聞山城主。従四位下弾正少弼、永禄十二年四月以降は山城守とも称す。山城西岡の商人の出自などとも言われ、前歴不明ながら戦国期屈指の謀略家で主の三好長慶から実権を奪い、時の将軍義輝を二条御所に攻め殺害した。永禄十(1567)年、筒井順慶・三好三人衆らとの南都における戦いで、兵火により結果的に東大寺大仏殿を炎上させる。のち信長に属すが再三背き、天正五年十月に信貴山城で自刃(一説に名器平蜘蛛茶釜とともに爆死)。奇しくもその日は大仏殿を焼いた日と同じ十月十日であった。

松永久通
まつなが ひさみち
1543?〜1577
幼名彦六、はじめ義久を名乗る。久秀の嫡子で、一説に河内飯盛山城で誕生したという。はじめ右衛門大夫を称し永禄六年に従五位下右衛門佐に叙任、家督を譲られて多聞山城主となり、その官名から金吾と呼ばれた。父久秀とともに行動する事が多く、将軍義輝殺害に加担。天正五年八月、突如信長に背いた父に従い出陣中の摂津天王寺の砦から引き上げ、十月一日に楊本城で裏切りに遭い殺された。一説に父久秀とともに信貴山城に滅んだとも伝えられる。法名「高岳院久通居士」。


松本景繁
まつもと かげしげ
生没年不詳
越後三島郡の国人で上杉謙信の家臣、小木(荻)城主。永禄八(1565)年からは上野沼田城の守将を務め、武田・北条勢の侵攻に対して備えた。後に「越相一和(越相同盟)」締結や北条氏秀(上杉景虎)の養子縁組に際して活躍したという。

松浦隆信
まつら たかのぶ
1529〜1599
肥前国の豪族肥前守興信の子で、倭寇の流れをくむ肥前水軍「松浦党」の第25代首領。通称は源三郎、肥前守を称す。秀吉の九州征伐時にその傘下に入り、肥後一揆蜂起の際には加藤清正に属して奮戦、志岐城を落とす。熱心なキリシタンとしても知られ、領内でのキリスト教の布教を許可した。

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