本山茂辰
もとやま しげとき
生没年不詳
土佐本山城主で安政とも。父の茂宗(清茂とも)の代から長宗我部国親・元親親子と対立し、国親に敗れて弱体化。後に元親の傘下に属した。妻は国親の長女。

茂庭延元
もにわ のぶもと
1549〜1640
良直の子で伊達政宗の重臣。名ははじめ鬼庭綱元を称す。文禄の役以降は秀吉の命により茂庭姓に改めた。軍政両面に活躍、秀吉にも気に入られて絶世の美女であった愛妾「香の前」を賜ったが、これが元で政宗の嫉妬を買い出奔。後許されて戻り、政宗に彼女を献上し事なきを得たという。

籾井教業
もみい のりなり
 ? 〜1576
丹波国波多野氏家臣の籾井城主で武芸に長じ、赤井(荻野)悪右衛門直正の「赤鬼」と並んで「青鬼」の異名を取る猛将。羽柴秀吉の中国侵攻軍と戦うも落城、戦死した。

百地丹波守
ももち たんばのかみ
生没年不詳
名は正西(まさあき)とするものもあるが、世襲による呼称と思われ、人物の特定はできない。伊賀竜口と喰代(ほおじろ)にある伊賀上忍三家の一つ百地家の当主で、服部保長が京へ去った後に伊賀国内での実権を握る。天正伊賀の乱の際には軍師的存在として国人衆を指揮し、信長軍に抵抗した。一説に大盗賊石川五右衛門は忍術の達人百地三太夫の弟子とされるが、三太夫がこの百地丹波である事を示す資料はない。

森 忠政
もり ただまさ
1570〜1634
可成の六男で長可・蘭丸らの弟。美作守のち左中将。豊臣秀吉に仕え、羽柴侍従の名を許されて右近大夫忠政を名乗り美濃金山城主となる。秀吉没後は徳川家康に仕え、秀忠に属して真田昌幸籠もる上田城攻めに参戦した。慶長八年二月、それらの功により美作津山城(藩)主となったが、寛永十一年七月、京都大文字屋で食中毒を起こして翌日に宿所の妙顕寺で急逝した。

母里友信
もり とものぶ
1556〜1615
但馬守。通称の母里太兵衛として広く知られる。播磨妻鹿(めが)の生まれで黒田孝高・長政二代にわたる家臣。「黒田八虎」の一人に数えられた勇将で槍術にすぐれ、栗山備後守利安とともに黒田長政の先手左右の大将を務め、朝鮮の役等数多くの合戦で活躍した。主君に向かって数々の直言・強諫も辞さない典型的な豪傑として知られ、福島正則から「呑み取った」名槍日本号を操り、黒田節にその姿を唄われたことで有名。

森 長可
もり ながよし
1558〜1584
織田信長の家臣。可成の次男で美濃金山城主。名は長一、可長とも。通称勝蔵、武蔵守。父可成の戦死により十三歳で家督を嗣ぐ。信長の下で伊勢長島・有岡城・高遠城攻めなど各地を転戦して戦功を挙げ、その戦い振りから「鬼武蔵」の異名をとる。武田家滅亡後は北信濃四郡を拝領して海津城主となった。信長の没後は秀吉に従い、長久手合戦で徳川方の一斉射撃に遭い、真額を打ち抜かれて戦死。

森 好高
もり よしたか
生没年不詳
幼名千代丸、通称九兵衛・縫殿助。志摩守好之の子で妻は松倉右近の娘。天正九年に父好之の死去により遺領を継ぐ。筒井定次の移封により伊賀に赴くが、天正十五(1587)年に伊賀を去り南都傳香寺に遊居と伝える。知行五千石、後に大津姓に改姓したという。

森 可成
もり よしなり
1523〜1570
通称三左衛門。織田家家臣で美濃金山城主。主に諜報活動などを担当したことから、忍者上がりではないかとも言われる。元亀元(1570)年九月二十日、本願寺に呼応した浅井長政・朝倉義景に攻められ近江宇佐山城で戦死。享年四十八歳。

森 好久
もり よしひさ
1538〜1582
通称傳助・隼人佐、縫殿助好高の従兄弟で二千石を領す。妻は小泉四郎左衛門秀元の妹。一説に天正五(1577)年の信長による信貴山城攻めの際、松永方に潜入して筒井氏の軍勢を城内に手引きしたとされる。天正十年十月六日没、享年四十五歳という。

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