長尾顕長
ながお あきなが
 ? 〜1621
上野新田金山城主由良国繁の子で通称新五郎、但馬守。長尾景長に入婿して家督を嗣ぎ、下野足利城主となる。はじめ上杉謙信、のち織田信長に属すが北条氏直に攻められ降伏、豊臣秀吉の小田原攻めの際には北条方として戦った。戦後所領を没収され佐竹義宣の常陸牛久へ赴くが、後に浪人した。

長尾景長
ながお かげなが
1527〜1569
下野足利長尾氏憲長の子で通称新五郎、但馬守。足利城主で、はじめ政長(当長)を称す。上杉謙信の関東侵攻時に服属、上野館林城の守将となる。のち由良成繁と謙信の調停役を務めるが、永禄十年頃謙信から離れて北条氏に属したという。

長尾景春
ながお かげはる
1443〜1514
関東管領山内上杉家の家老景信の子で通称は四郎左衛門尉、白井城を本拠とする白井長尾氏の当主。父景信の死に際して管領上杉顕定が弟の忠景に家督相続を命じたため離反、古河公方足利成氏に通じる。永正六年上杉憲房に白井城を奪われるが、翌年顕定の死に乗じて翌年奪還した。

長尾為景
ながお ためかげ
 ? 〜1536?
越後守護代能景の子で上杉謙信の父。永正四年に越後守護上杉房能を天水越で討ち、後を嗣いだ定実の補佐役となる。同七年には関東管領上杉顕定と越後長森原で戦い、顕定を討った。天文五年に家督を子の晴景に譲って隠居、同年中に歿したとも六年後に歿したとも言われる。

長尾憲景
ながお のりかげ
1511〜1583
上野惣社長尾氏顕忠の子で群馬郡白井城主。はじめ景房を称し、上杉憲政の偏諱を受けて憲景と改名。通称は孫四郎。はじめ上杉謙信に従ったが、元亀三年真田幸隆らに城を奪われ八崎城に逃れ、翌年奪回したが真田氏とは抗争を続けた。謙信没後は武田勝頼のち滝川一益と渡り、最終的には北条氏に服属した。

長尾晴景
ながお はるかげ
 ? 〜1553
越後守護代長尾為景の嫡子、上杉謙信の兄。はじめ定景を称し、将軍義晴の偏諱を受けて晴景と改名。通称は弥六郎。天文五年に家督を嗣ぐが、病弱でまた武将の統率力に欠けていたため家中がまとまらず、弟景虎とも仲がこじれたため、守護上杉定実が間に入り家督を景虎に譲って隠居した。

長尾政景
ながお まさかげ
1527〜1564
上杉景勝の実父。越後南魚沼郡上田長尾氏房景の子で、坂戸城主。妻は上杉謙信の姉仙桃院。一度謙信の兄晴景に加担して謙信と争ったが、許された後は忠実な重臣として軍政に活躍。永禄七年に宇佐美定満と野尻湖にて舟遊び中に酒に酔い、定満とともに溺死。謙信による謀殺説もあるが確証はない。

中川清秀
なかがわ きよひで
1542〜1583
重清の子で幼名虎之助、通称瀬兵衛。初め池田勝正のち織田信長麾下の荒木村重に属した摂津の土豪で茨木城主。元亀三年には信長に背いた和田惟政を討ち取り、後の山崎合戦でも活躍した。賤ヶ岳の合戦では大岩山に布陣するが佐久間盛政の奇襲を受け、奮戦したが戦死。

中川秀政
なかがわ ひでまさ
1569〜1593
清秀の子。信長の十女の婿で、後に播州三木城主に。信長没後は秀吉に仕え、各地の合戦で戦功を挙げた。朝鮮の役の際には三千騎を率いて奮戦するが、不運にも毒矢にあたってその傷がもとで没した。

長坂信政
ながさか のぶまさ
 ? 〜1572
家康の祖父・松平清康の家臣で後に松平広忠・家康父子にも仕えた。武勇の誉れ高い猛将で、特にその槍働きは「合戦で血塗らせぬことなし」と恐れられ、このことから「血槍九郎」の異名を持つ。

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