中島宗求
なかじま むねもと
生没年不詳
宗忠の子。伊達輝宗・政宗の家臣で、伊勢守を称す。相馬の役の際に活躍、一族に列し二千石を給され伊具郡金山城主となる。また駒ヶ峰城攻略時には一人で城を奪ったというエピソードを持つ勇将。
中島宗意
なかじま むねもと
? 〜1589
通称右衛門、伊達政宗の家臣。天正十六年小手森城攻略の際に活躍、首五百を得た戦功により千石を給されるが、翌年三春城の田村宗顕救援に赴き、敵将三坂右馬之介との一騎討ちに敗れて討死した。
中条景泰
なかじょう かげやす
1558〜1582
上杉謙信・景勝の家臣で、越前守を称す。越後吉江城主吉江景資の子で、中条藤資の婿となり、藤資没後に中条家を嗣ぎ鳥坂城主となる。天正十年、越中魚津城の守備を命じられるが織田勢の総攻撃を受け落城、諸将とともに自刃した。
中条藤資
なかじょう ふじすけ
? 〜1572
長尾為景・上杉謙信の家臣で、越前守を称す。越後揚北衆筆頭の蒲原郡鳥坂城主。謙信股肱の勇将で、永禄四年の川中島合戦の際に活躍、「血染めの感状」を受けたことで知られる。本城繁長謀反の際にはいち早く謙信に通報、本庄城攻撃に加わった。
長野業正
ながの なりまさ
1491〜1561
信濃守。関東管領山内上杉憲政の家臣で上野箕輪城主。名は「業政」とも書く。箕輪衆の筆頭とされる武勇の誉れ高い名将で「上州の黄班(虎)」と恐れられ、その死に至るまでついに武田信玄の自領侵入を許すことがなかったという。
長野業盛
ながの なりもり
1546〜1563
長野業正の嫡子で上野箕輪城主。父業正の没後も上杉謙信に属して武田信玄と戦ったが、遂に永禄九年信玄の猛攻を受け、上泉信綱らの奮戦も虚しく落城、十八歳の若さで自刃した。
中村一氏
なかむら かずうじ
? 〜1600
通称孫平次、式部少輔。豊臣秀吉の家臣で、豊臣家三中老の一人。戦巧者で秀吉からも「城を守らせれば天下一」と言われ、天正十三年の紀州攻めなどに活躍した。後に駿河府中十七万石余の城主となり関ヶ原では東軍に属したが、合戦直前に病死した。
那須資胤
なす すけたね
? 〜1583
下野の国人で烏山城主。宇都宮広綱らに兄高資が殺害され家督を嗣ぐ。はじめ常陸の佐竹義昭と同盟して蘆名・白河氏と戦うが、上那須国人衆の離反により反撃され、烏山城をめぐって激しく戦った。晩年は佐竹・宇都宮勢と合し、反北条の立場をとった。
那須資晴
なす すけはる
1557〜1610
資胤の子で下野烏山城主。通称太郎、大膳大夫のち修理大夫を称す。秀吉の小田原征伐の際に大関氏・大田原氏らいわゆる那須七騎が参陣する中、子の資景(藤王丸)を代参させるが認められず所領を五千石に減知された。秀吉歿後は徳川家康に御咄衆として仕えた。
長束正家
なつか まさいえ
? 〜1600
通称は新三郎、大蔵少輔を称す。元は丹羽長秀の軽輩であったが、才を秀吉に認められて抜擢され、後に豊臣家五奉行の一人として活躍。近江国出身で計数に明るく、豊臣政権の経理部門を担当。関ヶ原では居城水口城に逃げ戻るが既に甲賀衆に占領されて入城できず、近江郡日野まで落ち延びたが進退窮まり自刃した。
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