夏目吉信
なつめ よしのぶ
 ? 〜1572
通称次郎左衛門、徳川家康譜代の家臣。熱心な一向宗信者で、三河一向一揆の際には宗門側に属して家康と戦うが、戦後許されて復帰、三河・遠江郡代を務めたが、三方ヶ原の合戦時に家康の身代わりとなり討死した。余談だが、明治の文豪・夏目漱石は彼の遠縁の子孫だという。

鍋島勝茂
なべしま かつしげ
1580〜1657
直茂の嫡子で通称伊平太または伊勢松、信濃守を称す。初名は信茂、清茂。朝鮮の役で父直茂と共に活躍、関ヶ原でははじめ西軍に属すが父直茂からの急使で東軍に寝返り、急遽帰国し毛利秀包の筑後久留米城、立花宗茂の同柳川城を攻めた。この戦功と父直茂の取りなしで旧領を安堵され、大坂の役や島原の役へも参陣した。

鍋島清房
なべしま きよふさ
1513〜1585
佐嘉本庄村の郷士・清久の二男で通称孫四郎、駿河守。龍造寺氏と周防大内氏における享禄三年の田手畷の戦いで父清久とともに赤熊(しゃぐま)武者を率いて活躍、龍造寺方を勝利へ導いた。以後龍造寺家兼の重臣となり、馬場頼周に追われた家兼が巻き返しに出た際にも活躍。弘治二年に家兼の孫娘で隆信の母慶ァ尼(けいぎんに)を後妻に迎えた。天文二十一年には鍋島・龍造寺氏の菩提寺・高伝寺を創建した。

鍋島直茂
なべしま なおしげ
1538〜1618
清房の子で後の肥前佐嘉藩祖。加賀守。信昌、信生(のぶなり)のち直茂を名乗る。斜陽の龍造寺家を最後まで支えた名参謀。今山合戦において大友軍六万の大軍を佐嘉城に迎え撃ち、奇襲で先手大将大友親貞を討ち取ったことは有名。主家の滅亡後には巧みに秀吉・家康に取り入り、関ヶ原では東軍に属した。龍造寺隆信が沖田畷合戦で戦死して以来、事実上龍造寺氏に代わって佐嘉を支配。龍造寺高房没後は名実共に佐嘉藩主となった。

成田氏長
なりた うじなが
 ? 〜1595
長泰の子で下総守を称した武蔵忍城主。秀吉の小田原攻めの際に一旦小田原城に籠城するが、秀吉の右筆山中長俊の説得を受け入れ密かに内応。しかし事情を知らない忍城の夫人や守兵は開城せず、北条氏政らの切腹後に氏長自身の説得によりようやく開城した。戦後蒲生氏郷の傘下に入り、下野烏山城主となった。

成田長泰
なりた ながやす
生没年不詳
武蔵忍城主で「武蔵四家」筆頭の地侍成田親泰の子、下総守を称す。永禄三年から長尾景虎に属すが、翌年景虎の関東管領就任式にて無礼を咎められて打ち据えられたため離反。永禄六年には再び降伏するが、家督を氏長に譲り隠居、後は北条氏に属したという。

成富茂安
なりどみ しげやす
1560〜1634
龍造寺隆信のち鍋島直茂・勝茂の重臣。甲斐守信種の次男で兵庫助を称す。兄久蔵の戦死により家督を嗣いだ。朝鮮役でも先陣を務めるなど戦功も多く、加藤清正からの一万石の誘いを蹴ったエピソードが知られる。のちに鍋島勝茂のもとで佐嘉藩の治水・新田開発事業に多大な功績を収め、名民政家と評された。

成瀬正成
なるせ まさなり
1567〜1625
徳川家譜代の重臣。家康の小姓上がりで信頼も厚く、小牧・長久手の合戦や関ヶ原の際に活躍。また家康の政治面の中枢として参画、和泉堺奉行も務めた。後に尾張家義直の付家老を命ぜられ、犬山三万石の城主に。

南条元清
なんじょう もときよ
 ? 〜1614
伯耆羽衣石(うえし)城主元続の弟(宗元の庶子)。左衛門督のち伯耆守を称し、元宅と号す。最終的に加藤清正の臣。初め伯耆岩倉城主、羽衣石城代。朝鮮役の際に甥元忠の名代として出兵したが元忠の家臣の讒言により失脚、小西行長に預けられた。関ヶ原の際には行長の弟・行景の下で宇土城を守備、攻め寄せた加藤清正の豪将三宅角左衛門と槍を合わせた。主家改易後は加藤清正に仕え伯耆守を称し、六千石を領した。

南条元忠
なんじょう もとただ
 ? 〜1614(1615?)
伯耆羽衣石(うえし)城主元続の嫡子で通称虎熊、中務大輔を称す。名は忠成・光成・政忠とも。秀吉麾下に入り朝鮮の役で活躍するが、関ヶ原では西軍に属し失領。大坂冬の陣では真田幸村と共に真田丸に籠もり奮戦したが、東軍内通の嫌疑を掛けられ殺害された。一説に翌年の大坂落城に殉じたともいう。

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