淡河定範
おうご さだのり
1539〜1579
弾正忠。播磨別所氏に属した国人で三木郡淡河城主。別所長治の義理の伯父にあたる。天正六年二月、長治が織田信長に背くとこれに同調。翌年五月に織田軍に城を包囲されるが六月二十七日、敵軍中に牝馬を放つ奇襲を策し快勝、兵三百を率いて三木城に入った。九月十日、毛利方の兵糧搬入に際して羽柴勢と平田大村にて激突、寡兵ながらも奮戦するがついに力尽きて自刃。
大石綱元
おおいし つなもと
? 〜1601
はじめ関東管領上杉憲政傘下の武蔵国人衆。元興(綱資)の子で播磨守を称し、名は兼綱とも。憲政が北条氏康に追われて越後に奔った際に同伴、そのまま上杉謙信・景勝の家臣となった。御館の乱の際には景勝側につき、最終的には陸奥伊達郡保原城代を務めた。
大石芳綱
おおいし よしつな
生没年不詳
はじめ関東管領上杉憲政傘下の武蔵国人衆。元興(綱資)の子で通称右衛門、綱元の兄。憲政が北条氏康に追われて越後に奔った際に同伴、そのまま上杉謙信・景勝の家臣となった。御館の乱の際には景勝側につき、天正九年には越中魚津城・松倉城の監視役を務めた。
大内定綱
おおうち さだつな
1546〜1610
勘解由左衛門、晩年は廉也斎を称す。周防山口大内氏の一族といわれる陸奥田村郡の郷士で塩松城主。その時々で佐竹・蘆名・伊達氏と去就反復を繰り返すが、最終的には伊達政宗に臣従、以後数々の合戦で活躍した十文字槍の達人。
大内晴持
おおうち はるもち
1524〜1543
義隆の姉の子で義隆の養嗣子となる。父は土佐の一条房冬。幼名太郎、初名恒持。周防権介のち左衛門佐、天文七年に将軍義晴から偏諱を賜り晴持を名乗る。容姿端麗で文武に秀でたと伝えられるが、天文十二年五月七日、尼子氏の出雲月山富田城攻略に敗れて帰陣途中、揖屋浦で船が転覆して溺死。
大内義興
おおうち よしおき
1477〜1528
政弘の子で大内氏第三十代当主。周防・長門など六カ国の守護職を務め、左京大夫を称す。永正五年には義興を頼って流れてきた前将軍義稙を擁して上洛、将軍義澄らを追い払い幕政に参画。しかし、留守の国元では尼子経久らの台頭を呼び、毛利元就を尼子方から寝返らせることに成功するが、ほどなく病没した。
大内義尊
おおうち よしたか
1545〜1551
義隆の子。母は義隆が溺愛したと伝える「おさいの方(小槻伊治の娘)」。天文十六年には三歳にして従五位下周防介に叙任される。天文二十(1551)年、陶晴賢(当時は隆房)が反乱を起こし、父義隆とともに長門へ逃れる。しかし九月一日、義隆は自刃に追い込まれて義尊も陶方に捕らえられ、翌日殺された。享年七歳。
大内義隆
おおうち よしたか
1507〜1551
義興の子で大内氏第三十一代当主。周防山口に居を構え、西国六カ国を領し京風文化にも精通した文化人守護大名として知られる。しかしその政治があまりに文化面に偏っていたため、天文二十(1551)年八月二十九日、文官相良武任と対立していた武闘派家臣陶晴賢(当時は隆房)の反乱に遭い長門へ逃れるが、深川大寧寺に追いつめられ九月一日に自害。
大内義長
おおうち よしなが
1540〜1557
大友晴英。宗麟の弟。大友義鑑と義隆の姉の間に生まれる。初め義隆の意志で大内家への養嗣子とするつもりだったが、天文十四年の実子義尊の誕生で縁組は一旦白紙となる。義隆没後に陶晴賢から迎えられて正式に大内氏を嗣ぐが、毛利氏の侵攻の前に山口から長門勝山城に移り、弘治三年四月三日、長府の長福寺で自害した。
大枝実頼
おおえだ さねより
1556〜1624
伊達政宗の家臣。大条参河宗家の第二子(宗直の弟)ではじめ越前守を称す。政宗の信任が厚く、伊具郡丸森城を与えられた。一旦嫡子の修理元頼に家督を譲り隠居するが、再度召し出されて国老を命じられた。
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