大枝宗直
おおえだ むねなお
生没年不詳
伊達政宗の家臣。大条参河宗家の長子で尾張守を称す。政宗の信任が厚い伊達郡大枝城主。天正十七年には三春城の警備を、朝鮮の役の際には伏見城留守居役を務める。最終的には気仙郡に移り、二千石を治めたという。

大川忠秀
おおかわ ただひで
 ? 〜1561
上杉謙信の家臣。永禄四年の川中島合戦の際に参加、海津城を守備部署にを命じられる。武田軍と白兵戦の末に飯富三郎兵衛(後の山県昌景)と渡り合い、奮戦するがついに討たれたという。

大川長秀
おおかわ ながひで
生没年不詳
上杉謙信の家臣。忠秀の子。本庄繁長の謀反の際に長秀の弟二人が繁長に応じ藤懸城を奪ったため、謙信の命により奪還を図り砦を構えて対峙する。膠着状態となるが、翌年繁長の降伏により帰城した。

大木兼能
おおき かねよし
1552〜1611
加藤清正の家臣で通称は土佐(守)。初め佐々成政の家老で三千石を領したが、成政失脚後に同待遇で清正の家臣となる。朝鮮役等で数々の軍功を挙げ、関ヶ原の際には梶原景俊とともに一計を案じ、大坂の屋敷から清正夫人を無事肥後へと脱出させた。清正が没した翌日に殉死した。

大国実頼
おおくに さねより
1562〜1622
上杉謙信・景勝の家臣。越後坂戸城主長尾政景の臣樋口兼豊の次男で、直江兼続の弟。小国重頼の養嗣子となり小国氏を称すが、景勝の命により大国と改姓。景勝の移封に伴い南会津郡南山城主、次いで東置賜郡高畑城主で七千石を領した。

大久保忠佐
おおくぼ ただすけ
1537〜1613
忠世の弟で駿河沼津城主。徳川家康の家臣で若い時から家康の側にあって数々の合戦に戦功を挙げる。関ヶ原の際には秀忠に従い、戦後上総茂原五千石から駿河沼津二万石の城主に。

大久保忠教
おおくぼ ただたか
1560〜1639
忠世の腹違いの弟で通称彦左衛門。徳川家康の家臣で兄忠世とともに各地を転戦、後に槍奉行・旗奉行を歴任した三河武士の筆頭のような武将。彼自身の体験談とも言える「三河物語」を著したことでも知られる。

大久保忠隣
おおくぼ ただちか
1553〜1628
忠世の子で相模守、相模国小田原城主。徳川家康の重臣で、秀忠の補佐役に任命された。後に本多正信との政権闘争に敗れて改易された。

大久保忠世
おおくぼ ただよ
1532〜1594
徳川家譜代の重臣で、相模小田原城主。三方ヶ原や長篠の合戦をはじめ、数々の戦いにおいて多くの武功を挙げた武闘派の勇将。

大久保長安
おおくぼ ながやす
1545〜1613
一介の猿楽師から家康に抜擢され、石見守を称した江戸幕府初期の異色の代官頭。松平忠輝の家老を務め、アマルガム法による吹き分けを採用し各地の鉱山開発に多大な貢献をしたが、不正が発覚し改易、一族縁者もろとも死罪に処された。

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