大熊朝秀
おおくま ともひで
 ? 〜1582
越後守護上杉定実の段銭方箕冠城主備前守政秀の子で、名は長秀とも。長尾為景の下でも段銭方を務め、のち上杉謙信の下で奉行職に就くが、弘治二年謙信に背き武田信玄のもとに奔る。以後一手の将として遠江小山城代を務めるが、勝頼と共に天目山麓で討死した。

大崎義隆
おおさき よしたか
1548〜1603
義直の子で、陸奥大崎五郡三十五万石を領したとされる、名生(みょう)城を本拠とした奥州探題家大崎氏第12代当主。重臣氏家吉継の離反以来家中が弱体化、天正十六年には侵入してきた伊達氏を一時撃退したが後が続かず、秀吉の小田原征伐への遅参や領内の一揆発生を咎められ失領。後に上杉景勝を頼りその家臣となった。

大須賀康高
おおすか やすたか)1526〜1589
榊原康正の舅。徳川家康の重臣で、小牧・長久手の合戦の際には先鋒を務めた。三河奉行を務めたこともあり、軍政両面にわたって家康を助けた功臣。

太田一吉
おおた かずよし
 ? 〜1617
宗清の子で飛騨守を称す。名は政信・宗隆・政之・重之とも。元丹羽長秀の家臣で、没後は豊臣秀吉に仕え豊後臼杵で六万五千石を領し、直轄地十万石の代官を兼ねた。朝鮮役では軍監を務めるが蔚山城で負傷、帰国後家康から蟄居させられた。関ヶ原では西軍に属し失領、剃髪して宗善と号し京で余生を送った。

太田資正
おおた すけまさ
1522〜1591
扇谷上杉朝興の重臣資頼の子で武蔵国岩槻城主。美濃守、民部大輔、晩年は三楽斎道誉を称す。度々北条氏と戦ったが長子氏資の離反により敗れ、次男梶原政景とともに常陸の佐竹義重の客将となる。合戦に軍用犬を用いた最初の武将として知られる。

太田宗正
おおた むねまさ
 ? 〜1585
通称左近。紀伊雑賀五緘(ごからみ)宮郷太田城主。1585年の秀吉による紀州攻めの際には根来衆と組んで徹底抗戦したが、衆寡敵せず太田城に退去し籠城。善戦したが秀吉に水攻めにされ、一ヶ月後に城将五十人と共に自刃。

大館晴光
おおだて はるみつ
 ? 〜1565
室町幕府将軍足利義晴・義輝の幕臣。『大館常興日記』を著した尚氏の子で陸奥守。義輝が上杉謙信・武田信玄・北条氏康三者の和睦を図ったとき、命を受け越後に下向して謙信を説得した。

大谷吉継
おおたに よしつぐ
1559〜1600
近江伊香郡の出自で大谷吉房の子と伝えられ(異説あり)、通称は紀之介、刑部少輔を称す。秀吉の近侍から次第に頭角を現し、越前敦賀五万石の城主となる。娘が真田幸村の妻で、名は吉隆とも。地味ながらも親友石田三成との義に生き義に殉じた悲運の名将。関ヶ原の際に隣に陣した脇坂安治ら四将の裏切りに遭い、奮戦ののち自刃。巷説では持病のハンセン氏病が悪化して盲目であったと伝える。

太田原資清
おおたわら すけきよ
1486〜1560
備前守。胤清の子で下野国大田原(前室)城主。1518年に那須衆との戦いに敗れて一時出家するが、1542年再び還俗、大関増次を滅ぼし大俵氏を興す。この後の大関氏は資清の長子高増に継がせた。那須七騎の一人に数えられる勇将。

太田原晴清
おおたわら はるきよ
1567〜1631
備前守。資清の孫(縄清の子)で下野国大田原城主。那須氏に仕えていたが、秀吉の小田原攻めの際にいち早く参陣、所領を安堵された。家康の会津征伐時には居城で上杉勢の南下に備え、大坂の陣の際は本多正信の麾下に属して活躍した。

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