大槻政通
おおつき まさみち
? 〜1578
陸奥大槻館に居住した蘆名盛氏の家臣。はじめ大庭姓であったが、後大槻に改姓。天正六年に山内重勝一族とともに盛氏に背いて上杉謙信に通じたため、盛氏に攻められ自害した。
大友義鑑
おおとも よしあき
1502〜1550
義長の子で豊後大友氏第二十代当主。宗麟の父。豊後・筑後・肥後に及ぶ領国を形成した。天文年間前半より豊前をめぐって大内義隆と戦う。天文十九年、嫡子義鎮を廃して三男塩市丸に家督を嗣がそうとしたが、これに反対する家臣に襲われて負傷(二階崩れ)、二日後に死去した。享年49歳。死に臨んで義鎮に「大友義鑑条々」を遺した。
大友義鎮
おおとも よししげ
1530〜1587
義鑑の子で後に宗麟を称す。異母弟塩市丸との家督争い、いわゆる「二階崩れ」を制し豊後国主となる。キリシタン大名として有名で、旧大内領の北九州一帯も支配下にするが、後に島津家との耳川の合戦では家臣の諫めを聞かず出陣して大敗。上洛して豊臣秀吉に救援を請い、豊後はかろうじて嫡男義統に与えられる形で守ったが、以後覇気を失い天正十四年五月六日に没した。享年58歳。
大野治胤
おおの はるたね
? 〜1615
大野治長・治房の弟で道犬斎と号す。元和元年の大坂冬の陣では船庫を守備、夏の陣では紀州方面部隊の後衛として船で堺へ渡り、大湊を焼き討ちした。大坂城落城時に治房らとともに城を脱出するが捕えられ、町を焼かれた恨みの残る堺衆からの請いにより引き渡され、堺で磔刑に処された。
大野治長
おおの はるなが
? 〜1615
通称修理亮(しゅりのすけ)。大坂の陣の際は豊臣方の事実上の総帥だったが、統率力に欠け浪人武将の信頼を得ることが出来ず落城後に自害した。古田織部門下の茶人としても知られる。
大町頼明
おおまち よりあき
生没年不詳
通称七郎、伊達晴宗の家臣。伊達家累世の一族で三河守を称す。稙宗と晴宗のいわゆる天文の大乱では兄兼明が稙宗側についたため、晴宗の代で頼明に家督が与えられた。一書に人取橋の合戦で嫡子源四郎継頼とともに討死にしたとされるが、詳細は不明。
大村純忠
おおむら すみただ
1533〜1587
有馬晴純の二男。幼名は勝童丸、民部大輔・丹後守を称す。受洗名バルトロメオを持つキリシタン大名として知られる。天文七年に大村純前の養嗣子となり程なく家督を嗣ぐが、純前の実子で後藤家に養子に出された貴明との確執に苦しんだ。天正十年には大友宗麟・有馬晴信らとともに少年使節をローマへ派遣した。天正十一年には龍造寺隆信の圧迫を受け波佐見へ追われるが、隆信滅亡後は豊臣秀吉に属し所領を安堵された。
大山伯耆
おおやま ほうき
生没年不詳
石田三成家臣。元は豊臣秀長の家臣で、黄母衣衆十三人の一人に抜擢された猛者。『角力読本国技』では秀吉の島津征伐の際、勝山城で相撲に興じた際に石田家中から選ばれ、天野源右衛門・渡辺勘兵衛・塙団右衛門らとともに技を競ったとされる。三成の佐和山蟄居時は佐和山城から三成の警固に出向いた。ただし『砕玉話』には石田三成の家老島左近の家士としてその名が見え、のち三成の直参となり左近に劣らぬ武将になったと紹介する。
小笠原長時
おがさわら ながとき
1514〜1583
信濃守護小笠原長棟の長男で、信濃守を称す。信濃守護職を継ぐが勢威は衰え、天文十七年に塩尻峠で武田信玄に大敗して後次々と城を落とされ上杉謙信を頼る。その後三好長慶を頼り一時足利義輝に仕えるが義輝の奇禍により再び越後に戻る。謙信没後は蘆名盛氏の下に寄食し、会津で歿した。
岡部正綱
おかべ まさつな
1542〜1583
今川義元の家臣。美濃守信綱の子で通称は次郎右衛門。元信の兄。今川氏滅亡後は武田氏に属して駿河国先方衆清水城将となり三千貫の知行を与えられ、三方ヶ原合戦や高天神城攻めに従軍した。武田家滅亡後は徳川家康に仕え、甲斐平定に活躍したと伝えられる。
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