織田信興
おだ のぶおき
 ? 〜1570
信長の実弟で通称は彦七郎、尾張小木江城主。1570年、本願寺顕如の指令を受けた長島一向一揆の大軍に城を襲われ奮戦するが、わずか二百の手勢ではどうしようもなく、ついには攻め込まれて自害した。

織田信雄
おだ のぶかつ
1558〜1630
信長の二男で幼名茶筅(丸)、通称は三介。天正三年に伊勢国司北畠家を継ぎ、天正伊賀の乱の際には総大将を務めた。一時秀吉と対立し、家康と連合して小牧長久手の役へと発展したが程なく和睦。後に出家して常真と号し家康に仕えた。

織田信澄
おだ のぶすみ
 ? 〜1582
信行の子で信長の甥、近江国大溝城主。四国攻めのため摂津在陣中に本能寺の変が起こり、妻が明智光秀の娘だったため、去就を疑われてともに出陣していた信孝に殺された。

織田信孝
おだ のぶたか
1558〜1583
信長の三男。信長の北伊勢侵攻時に神戸具盛の養子となり神戸氏を称した。越前一向一揆や雑賀攻め、高野山衆徒討伐などに出陣。信長没後は自分の擁立を図る柴田勝家につき秀吉と争うが、勝家は賤ヶ岳で敗れ、秀吉の意を受けた兄信雄に追われて尾張内海野間で恨みの句を残して自刃した。

織田信忠
おだ のぶただ
1557〜1582
信長嫡子の勇将。天正五年の松永久秀討伐時には総大将を務め、高遠城攻めの際には陣頭に立って軍団を指揮、城将仁科五郎盛信を討ち取る。本能寺の変の際、父の救援を果たせず二条御所で誠仁親王らを落とした後光秀軍と戦うが力尽き自害。

織田信次
おだ のぶつぐ
 ? 〜1574
織田信秀の末弟で信長の叔父。尾張守山城主。1555年、川狩りの最中に自分の家臣州賀才蔵が誤って信長の弟喜六郎秀孝を射殺、報復を怖れた信次は逐電するが翌年信長に呼び戻されて事なきを得た。1574年長島の一向一揆と交戦中に討死。

織田信長
おだ のぶなが
1534〜1582
信秀の子。軍政両面に数々の新機軸を採用した戦国の革命児。永禄三年、今川義元4万の大軍を桶狭間にてわずか2千の軍勢で撃破するという強運に始まり、美濃斎藤氏を滅ぼして岐阜へ本拠を移す。有能な家臣にも恵まれ、朝倉・浅井・六角氏らを立て続けに滅ぼし勢力を拡大。天正元年には室町幕府十五代将軍足利義昭を京都から追った。十年に及ぶ本願寺との戦いを制し武田氏をも滅ぼすが、天正十年六月、一瞬の隙をつかれて明智光秀の謀反に遭い、燃え上がる本能寺にて自刃した。


織田信成
おだ のぶなり
 ? 〜1574
織田信光の子で尾張小幡城主。妻は信長の妹。長島攻めや浅井・朝倉攻めなどに従軍して活躍したが、1574年長島の一向一揆と交戦中に討死。

織田信秀
おだ のぶひで
1510〜1551
信長の父で備後守。尾張守護斯波氏の被官より実力で尾張半国を統一。尾張の虎と恐れられた猛将だったが尾張統一半ばで病死。

織田信広
おだ のぶひろ
 ? 〜1574
織田信長の庶兄。津田信広ともいう。1549年、安祥城の合戦で今川軍に敗れて捕虜となるが、信秀のもとにいた松平竹千代(後の徳川家康)と交換されて尾張に戻った。1574年長島の一向一揆と交戦中に討死。

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