織田信光
おだ のぶみつ
 ? 〜1555
織田信秀の弟で信長の叔父。通称孫三郎、津田信光ともいう。小豆坂の合戦では「七本槍」筆頭格の活躍、以後信長に協力。守護代織田信友を謀殺して清洲城を奪取するなどしたが、1554年11月に那古屋城で家老の坂井孫八郎に殺害された。

織田信行
おだ のぶゆき
 ? 〜1558
信長の弟。信長が若年時に「うつけ」と呼ばれていたため、一部の家臣にかつがれ家督相続争いを起こし、一度は収まったものの再び不穏の様相を見せたため、最後は信長重病と偽って呼び出された清洲城内で、信長自らの手で成敗された。

織田秀信
おだ ひでのぶ
1580〜1605
信忠の嫡男で信長の孫。幼名は三法師で信長没後の清洲会議にて秀吉の後押しにより織田家の後継に決まるが、既に世は秀吉の時代で元服の後岐阜城主となる。関ヶ原の際には西軍に属したが福島正則らの猛攻を支えきれず剃髪して降伏、高野山へ入り五年後に病歿した。

鬼小島弥太郎
おにこじま やたろう
1522〜 ?
> 本名は小島一忠と伝える。その怪力には家中に並ぶ者なしと言われ、数々の武勇伝を残したとされる上杉家随一の豪傑。謙信の側近で力士衆とも伝えられ、一説によると1547年の栃尾の戦いで戦死したと言われる一方、1561年の川中島の合戦の際には山県昌景に「花も実もある勇士」と称賛されたという伝承もあり、詳細は不明。

鬼庭良直
おにわ よしなお)  1513〜1585
鬼庭は「おににわ」とも読む。また、茂庭(もにわ)とも。左月斎の号で知られる伊達家の重臣。政宗から総指揮を命じられた人取橋の戦いにおいて敗軍の殿軍を務め、七十三歳の老体に鞭打って奮戦するも乱軍の中でついに壮絶な戦死を遂げた。

小野木重勝
おのぎ しげかつ
 ? 〜1600
豊臣秀吉家臣で通称清次郎、天正十三年に従五位下縫殿介に叙任。名は重次・公郷・公知などとも記録に見える。妻は島左近の娘。秀吉の下で黄母衣・大母衣衆を務め各地を転戦、戦功により丹波福知山城主となる。関ヶ原の際には西軍に属し、細川幽斎の拠る丹後田辺城を包囲攻撃して開城させるが、西軍の敗戦により撤退。程なく居城福知山城を細川忠興に攻められ開城、井伊直政・前田茂勝を通じて助命を請うが許されず、十一月十八日に丹波亀山城下の浄土寺嘉仙庵(現寿仙院)において自刃。首は京都三条河原に曝されたという。寿仙院には墓がある。

小野寺義道
おのでら よしみち
1566〜1645
景道の子で通称孫十郎、遠江守を称した出羽横手城主。文禄三年に最上義光の謀略に乗せられて重臣八柏大和守を成敗。以後家臣団の結束も衰え、関ヶ原でははじめ東軍に属すがのち上杉景勝に協力したため戦後失領、石見津和野の坂崎出羽守勝正のもとへ弟康道とともに配流され、同地で歿した。

小幡景憲
おばた かげのり
1572〜1663
通称勘兵衛。甲州流軍学者として知られ、江戸初期に「甲陽軍鑑」を集大成した(著者は高坂昌信)。大坂の陣の際は大坂方ながら京都所司代板倉勝重に通じ徳川家のスパイとして暗躍したという。

小幡虎盛
おばた とらもり
 ? 〜1561
甲斐武田氏の重臣で山城守。遠江国勝間田出身で父上総入道日浄とともに武田信虎に仕える。父の戦死により十四歳で家を継ぎ、信玄にも重用され海津城代高坂昌信の副将を務めた。

小幡信貞
おばた のぶさだ
生没年不詳
憲重(重定)の子で上野国峰城主。はじめ関東管領山内上杉憲政に属したが、憲政が越後へ奔ったとき武田信玄に臣従したため城を逐われる。武田氏滅亡後は織田信長に降伏、滝川一益に属したが、神流川で北条氏政に敗れたため今度は北条氏に服属。北条氏滅亡後は信濃で蟄居した。

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