西園寺公広
さいおんじ きんひろ
? 〜1587
伊予黒瀬城主。元は来応寺の僧で、還俗して西園寺実充の養子となり家督を相続。しかし時勢の流れには逆らえず、四国を統一した長宗我部元親の前に降伏、ついで翌年には秀吉の四国征討軍の前に降伏した。
斎藤龍興
さいとう たつおき
1548〜1573
斎藤義龍の子。十四歳の時に父義龍が病死したため美濃稲葉山城主となるが、家臣の竹中重治に一時城を占拠されたり、重臣の西美濃三人衆が離反したりと斜陽の斎藤家を立て直せず、遂に織田信長に攻め落とされた。囚われの身となるが釈放され伊勢長島から越前朝倉氏を頼るが、信長の朝倉攻めの際に刀禰坂の戦いで戦死。
斎藤道三
さいとう どうさん
1494〜1556
何度も名を変えたが、最終的には山城守利政。蝮の異名を持つ戦国屈指の謀将。一介の油売りから身を起こし、美濃守護土岐氏に出入りを許されたことをきっかけに謀略の限りを尽くして美濃一国を手中にしたとされるが、これは道三の父と二代にわたってのこととする説が有力。娘は織田信長の妻。土岐頼芸の子との噂があった長男の義龍と対立し、長良川畔で戦って討死。
斎藤利興
さいとう としおき
? 〜1582
斎藤道三の子で義龍の弟。名は長龍とも。通称新五または新五郎。道三と義龍が争いだした頃、美濃より脱出し信長の下に寄食、永禄八年に二千百八十貫の所領を宛われた。のち佐藤紀伊守忠能の娘を娶って養子となり、美濃加治田城主となる。各地を転戦して戦功を挙げたが、本能寺の変の際に信忠と共に二条御所で討死した。
斎藤利三
さいとう としみつ
1534〜1582
元斎藤義龍の家臣で、後に明智光秀の家老を務める。母は明智光秀の妹で、光秀の甥に当たる。有能な武将であったが山崎の敗戦後に近江で捕らえられ斬首。娘は徳川家光の乳母・春日局。
斎藤朝信
さいとう とものぶ
? 〜1591
上杉謙信・景勝の重臣で下野守を称す。越後刈羽郡赤田城主。謙信の奉行職を務め、越中方面攻略や下野佐野城攻めで活躍。御館の乱の際には景勝側につき軍功をたて、後に越中富山城や信濃海津城の守将を務めた。
斎藤信利
さいとう のぶとし
? 〜1610
越中の国人で通称次郎右衛門。はじめ信和を名乗り、のち上杉謙信に従う。謙信没後は織田方につき信利と改名した。天正九年には逆に上杉景勝側につき佐々成政に抗するが敗れ、義父の飛騨三木良頼を頼った。
斎藤義龍
さいとう よしたつ
1527〜1561
元美濃国主土岐頼芸の子とも言われ、その生まれをめぐり父道三と対立し、家臣団も二派に分かれた。しかし大勢は義龍に傾き、長良川河畔での道三との戦いの末その首を取る。体が大きく合戦にも強かったとされるが、若くして病死した。
斎村政広
さいむら まさひろ
1562〜1600
播磨の名族赤松政秀の子。通称弥三郎、左兵衛佐。諱は広道(通)・広英(秀)とも。藤原惺窩から漢学を学んだことで知られる。秀吉の中国平定の際に龍野城で降伏、蜂須賀正勝の配下となる。のち秀吉から取り立てられ天正十四年には但馬竹田城二万二千石の主に。関ヶ原の際、初め西軍に属すが途中で東軍に寝返り、宮部継潤の鳥取城を攻める。その際城下に放火したため徳川家康の怒りを買い、十月に自刃させられた。
酒井重忠
さかい しげただ
1549〜1615
徳川家康の家臣、河内守。竹千代時代からの家臣で、家康の三河統一期には石川家成の配下に属した。はじめ三河西尾城主、次いで武蔵河越一万石に移り、最終的には上野厩橋三万三千石の城主に。
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