酒井忠次
さかい ただつぐ
1527〜1596
徳川家康の竹千代時代からの家臣で家康の養育係。「徳川四天王」の一人に数えられ宿老を務めたが、信康切腹事件以後はやや疎まれ遠ざけられた。これは、信長から信康の行状不審をとがめられたとき、忠次が一言も信康の弁護をしなかったため、家康から後々まで恨まれたと伝えられている。

坂井久蔵
さかい きゅうぞう
 ? 〜1570
政尚の子。織田信長家臣で信長が足利義昭と共に上洛する際、まだ十三歳ながらも近江箕作城攻めで活躍、義昭から感状を得た。しかし2年後の姉川の合戦では父政尚と共に先陣を務めたが、浅井家の猛将磯野丹波守員昌の猛攻の前に激闘の末、力尽きて討死した。

酒井正親
さかい まさちか
1521〜1576
松平清康・広忠・家康三代に仕えた譜代の家臣で、雅楽頭(うたのかみ)を称す。家康が駿府へ人質として送られたときに同行、大高城兵糧入れの際には小荷駄奉行を務めた。翌年三河西尾城を攻略して与えられ、松平宗家譜代家臣初めての城主として知られる。

坂井政尚
さかい まさひさ
 ? 〜1570
織田信長家臣ではじめ盛種を名乗り、のち美濃の坂井下総守(異説あり)の養子となり政尚を名乗る。佐々成政の兄と伝えられ、姉川の合戦では織田軍の先陣を務めた。援軍として赴いた近江堅田の合戦で浅井・朝倉連合軍と激闘の末、奮戦むなしく討死。

榊原康政
さかきばら やすまさ
1548〜1606
徳川四天王の一人で、後に上州館林十万石の城主。関ヶ原の後に本多正信・正純親子と対立して次第に遠ざけられ、秀忠付きとなる。小牧の役の際、徹底的に秀吉を蔑みあざけった文言の立て札を立て、それが却って秀吉に感心されたというエピソードを持つ勇将。

相良武任
さがら たけとう
 ? 〜1551
正任の子で大内義隆の重臣。中務丞のち遠江守を称す。文官肌で主君義隆に取り入り大内家の家宰を務めたが、次第に義隆の寵を得て権勢を振るう。これを快く思わなかった武官の重臣・陶晴賢(当時は隆房)と対立し、晴賢の謀反の際に筑前花尾城で殺された。

相良正任
さがら ただとう
生没年不詳
大内政弘・義興の臣で遠江守、のち出家して沙弥正任(しょうじん)と号す。特に政弘の側近として活躍、義興の初期にかけて奉行人を務めた。有職故実に通じ、連歌にも堪能な文人として知られる。陣中日記「正任記」を著した。

相良長毎
さがら ながつね
1574〜1636
肥後人吉城主義陽の二男で初名は頼房、通称四郎次郎、宮内大輔を称す。兄忠房没後に家督を相続、秀吉の傘下に入り佐々成政の寄騎となった。関ヶ原でははじめ西軍に属し大垣城に籠もるが、決戦直後に水野勝成を通じ東軍に寝返り、城内で熊谷直盛らを謀殺して戦後所領を安堵された。

相良義滋
さがら よししげ
1491〜1546
肥後相良氏十三代長毎の子で十六代当主。八代古麓鷹ヶ峰城主で初め長唯を名乗る。兄瑞堅とともに十五代長定を国外追放した際、長男を養嗣子とする条件で上村頼興の協力を取り付けて家督を嗣ぐことに成功、八代・芦北・球磨三郡を統一した。

相良義陽
さがら よしひ
1544〜1581
肥後八代古麓鷹ヶ峰・人吉城主で、修理大夫を称す。同国八代・芦北・球磨三郡を支配し、一時は日向の一部に勢力を拡げたが北上する島津氏との間に激戦を展開、後に降伏に近い和睦を結び島津方に転じる。その後程なく1581年に益城響ヶ原にて肥後の名将・甲斐宗運と戦って戦死した。

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