佐久間信盛
さくま のぶもり
1527〜1581
織田家譜代の重臣で、近江長光寺城主。数々の合戦に戦功を上げ信長の信任も厚かったが、本願寺との石山合戦では苦戦し膠着状態に陥る。このことをずっと後になって信長から過去にさかのぼってその怠慢を咎められ、高野山へ子の正勝とともに追放され、さらに高野山から紀州日高郡寒川郷に移り、同地で病歿した。

佐久間正勝
さくま まさかつ
1556〜1631
元織田信長家臣で佐久間信盛の子。父の失脚時にともに高野山へ追放されたが、後に許され信雄に仕える。その後秀吉の御咄衆から徳川家へと仕えた。晩年は宗栄(宗透とも)と号し、武将と言うよりも茶人として知られている。

佐久間盛政
さくま もりまさ
1554〜1583
柴田勝家の甥で、加賀国尾山城主。勇猛な武将だが勝家に甘えるところがあり、賤ヶ岳の合戦の緒戦に秀吉方の中川清秀を討ち取ったが、度重なる勝家の退却命令に背き深入りして大敗。退却中に捕らえられ、京の市中を引き回された後に斬首された。

佐久間安政
さくま やすまさ
1555〜1627
盛政の弟。弟の勝之とともに執拗に秀吉に抵抗したが力及ばず降伏。後に織田信雄→北条氏政→蒲生氏郷→徳川家康と渡り歩く。関ヶ原では東軍に参加し、大坂の陣にも従軍した。最終的には信濃飯山三万石の城主に。

桜田元親
さくらだ もとちか
生没年不詳
伊達氏の宿老で通称玄蕃。政宗のもとで天正十七年初陣を迎え、父資親と駒ヶ峰城攻めに加わる。後に白石の役にも戦功を挙げ、特に仙台築城時に小人が暴動を起こした際には茂庭石見の命によりこれを鎮圧。のち秀宗に従い宇和島へと赴任した。

佐治信方
さじ のぶかた
生没年不詳
尾張知多郡大野浦の土豪・佐治左馬允為平の子で為興ともいう。桶狭間の合戦後に織田信長に臣従、妻は織田信長の妹・お犬。信長の嫡子信忠に従って長島一向一揆掃討戦に参陣した際に討死した。

佐竹義昭
さたけ よしあき
1531〜1565
義篤の子で右京大夫、常陸の戦国大名。天文二十年、北条氏康に平井城を攻略された関東管領山内上杉憲政に頼られ、管領職と上杉氏の名跡継承を申し込まれるがこれを拒否したため、憲政は越後の長尾景虎を頼る。領国拡大のさなかに35歳の若さで歿した。

佐竹義重
さたけ よししげ
1547〜1612
義昭の子で常陸介、はじめ義廉を称す。「鬼義重」と呼ばれ恐れられた北関東・常陸の大大名。伊達政宗と四つに組んで戦った勇将で、根強い土豪勢力の抵抗に苦しみながらもこれを一掃し、江戸重通の水戸城を攻略して常陸一国を統一。また次男義広を蘆名家、三男貞隆を岩城家、四男宣家を多賀谷家に送り込んで嗣がせ、版図を飛躍的に拡大した。

佐竹義宣
さたけ よしのぶ
1570〜1633
義重の子で通称次郎、右京太夫を称した初代秋田藩主。最終官位は左中将。初めは水戸城主として父の跡を継いで常陸国五十四万石余の所領があったが、関ヶ原では家康の出陣要請に従わず軍を動かさなかったため、出羽久保田(秋田)二十万石へ減封された。

佐々成政
さっさ なりまさ
1539〜1588
通称内蔵助。信長の重臣で、本能寺の変後は柴田勝家に属し富山城を預かる。勝家と同じく秀吉嫌いで知られ、勝家滅亡後に秀吉に降伏。肥後を任されたが失政により一揆が蜂起、鎮圧に失敗して秀吉からその罪を咎められ摂津尼ヶ崎にて切腹した。

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