佐藤清信
さとう きよのぶ
 ? 〜1563
美濃上有知(こうずち)の土豪。道信の子で秀信とも。通称六左衛門尉、鉈尾山初代城主。美濃守護土岐氏(斎藤氏)の被官となり天文十年に鉈尾山城を築いた。武儀郡中央に武威を振るい上洛を企てるが長屋氏広に阻まれ断念、後に和睦した。織田信長の美濃侵攻に際して降伏、以後は信長に従った。

佐藤為信
さとう ためのぶ
 ? 〜1591
紀伊守、陸奥伊具郡小斎城主。はじめ相馬盛胤の家臣であったが、父伊勢守好信が桑折左馬之助の讒言により失領。天正十四年に援軍として入城した左馬之助を殺害、ただちに子の勝信を人質に伊達氏に臣従した。のち小斎・金山城攻めに活躍するが、佐沼の役の際に討死した。

佐藤秀方
さとう ひでまさ
 ? 〜1594
清信の子で通称六左衛門尉、従五位下隠岐守。美濃鉈尾山二代城主。名は「ひでかた」とも。織田信長の臣で母衣衆を務めた。妻は金森長近の姉。山崎合戦以降は豊臣(当時は羽柴)秀吉に属し所領を安堵され、天正十一年には織田信孝方の郡上城主遠藤慶隆を立花山に戦い破る。以後紀州攻め・小田原役・文禄役に参陣。文禄二年に隠居して家督を方政に譲り、翌年没した。

里見忠義
さとみ ただよし
1594〜1622
義康の子で通称太郎、安房守、従四位下侍従。忠義の「忠」の字は将軍秀忠からの一字拝領。義康の早死によりわずか十歳で家督を継ぐ。妻が大久保忠隣の孫であったことから忠隣失脚の際に連座して改易となり、伯耆倉吉へ配流され失意のうちに没した。没時に近臣八人が殉死したことから、のちに『里見八犬伝』のモデルとなったのではないかとされる。

里見義堯
さとみ よしたか
1507〜1574
安房久留里城を本拠とした戦国大名実堯の子。刑部大輔・安房守を称す。小弓御所・足利義明と連携して第一次国府台合戦で北条氏綱軍と戦ったが大敗、義明は討死した。この後一旦安房国へ逃れたが上杉謙信と誼を通じ、勢力を徐々に回復した。小田原北条氏は共に親子二代にわたって戦ったライバル大名。

里見義弘
さとみ よしひろ
1530〜1578
義堯の子で安房佐貫城主、左馬頭・陸奥守を称す。北条氏の氏綱・氏康親子と何度か戦ったが、第二次国府台合戦で北条綱成軍に大敗した後上総国へ脱出。二代後の義康の時に安房一国は何とか保ったものの、その子忠義は大久保忠隣の失脚に絡み、伯耆倉吉へ転封となった。

真田大助
さなだ だいすけ
1602?〜1615
幸村の長男で、母は大谷吉継の娘竹林院。諱は幸昌あるいは信昌と伝える。幸村の九度山配流後、同地に生まれる。大坂の役の際に幸村とともに大坂城へ入城して戦い、幸村戦死後の慶長二十年五月八日、豊臣秀頼に殉じて自刃した。法名「頤神院殿直入全孝大居士」。

真田信尹
さなだ のぶただ
1547〜1632
幸隆の四男で昌幸の弟。武田氏の家臣加津野氏の養子となり加津野市右衛門信昌を名乗るが、武田家滅亡後は北条氏の臣を経て徳川家康に仕え隠岐守信尹を称す。北条綱成の拠る深沢城攻めの際に「地黄八幡」の旗を奪ったり、大坂の陣の際には家康の命で真田幸村のもとに「信濃一国」を条件に説得に出向いたことで知られる。

真田信綱
さなだ のぶつな
1537〜1575
武田信玄・勝頼の臣。幸隆の長男で昌幸の長兄。通称源太左衛門、武田二十四将の一人に数えられる勇将で信濃上田城主。青江貞次三尺三寸余の豪刀を揮い、上杉謙信との川中島合戦や北条氏政との伊豆韮山合戦、徳川家康との三方ヶ原合戦を始め、数々の戦いで武功を顕わす。天正二年に父幸隆が没して家督を嗣いだが、翌年長篠合戦において弟の昌輝とともに討死した。

真田信之
さなだ のぶゆき
1566〜1658
昌幸の子で伊豆守を称す。幸村の兄で妻は本多忠勝の娘。家康の上杉討伐時に世に言う「犬伏の別れ」で父昌幸や弟幸村と決別し、徳川方に付く。関ヶ原の敗戦で切腹処分が当然の父や弟の助命に奔走、舅の本多忠勝(榊原康政・井伊直政とも)らの後押しもあり高野山配流にとどめた。これ以後は徳川家に忠節を尽くし、後の松代藩真田本家の祖となった。

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