七里頼周
しちり よりちか
生没年不詳
三河守。もと本願寺の青侍で、のちに顕如から金沢御坊の坊官に任命され三河法橋(ほっきょう)を称す。天正二年に越前一向宗徒の要請で富田長繁(長秀)を討つ。翌年一揆大将の杉浦玄任と対立してこれを殺害、本願寺と上杉謙信との和睦に尽力した。

斯波義統
しば よしむね
 ? 〜1554
尾張国守護で清洲城主。当時ほとんど力を失っていた守護家だが、守護代・織田信友の信長襲撃を事前に信長に内通して知らせたため、和睦後に信友の手で暗殺された。

柴田勝家
しばた かついえ
1522〜1583
通称修理亮、一度織田信長の弟信行に加担して謀反したが失敗、降伏し許されてからは信長の忠実な家臣となる。「瓶(かめ)割り柴田」の異名を持つ織田家筆頭家老の猛将で、信長没後に清洲会議で秀吉と衝突、賤ヶ岳合戦で敗れ居城の越前北ノ庄で妻である信長の妹・お市の方とともに自刃。

新発田重家
しばた しげいえ
1546?〜1587
上杉謙信・景勝の家臣。伯耆守綱貞の子で因幡守を称す。はじめ五十公野(いじみの)家を相続して五十公野源太と称し、後に治長と改名。天正八年兄長敦の病死により新発田城主となるが、御館の乱後の恩賞の不満から織田信長に通じて景勝に背く。しかし信長が斃れたため苦戦に陥り、天正十五年景勝に新発田城を攻め落とされ自害した。

新発田長敦
しばた ながあつ
 ? 〜1580
上杉謙信・景勝の家臣。伯耆守綱貞の子で重家の兄、尾張守を称す。越後新発田城主。御館の乱の際には弟重家と共に景勝側に付き、武田勝頼との甲越同盟締結に尽力するなどして活躍したが、乱後の天正八年に病歿した。

柴田宗義
しばた むねよし
生没年不詳
通称又兵衛、但馬守。伊達輝宗・政宗の家臣。天正十七年の須賀川城攻略時には先鋒を務める。はじめ四保氏を称したが、政宗に従い上洛して秀吉に謁した時、本姓の柴田に復したという。

島 清興
しま きよおき
1540?〜1600
大和平群谷の出自か。通称左近、名は勝猛・清胤・友之・昌仲などとも記録に見える。筒井順慶の下で松蔵右近とともに「筒井の右近左近」と並び称された名将で、筒井家の伊賀移封後に定次のもとを離れ、石田三成から高禄で招聘されたとされる。石田家の筆頭家老を務め軍事全般を司り、関ヶ原の前哨戦・杭瀬川の戦いでは小戦ながら東軍方中村一栄を破る。しかし翌日の決戦で黒田長政隊の銃撃を受けて負傷、以後の消息は不明。戦死したとも西国・京都・東北などへ脱出したとも伝えられる。

島 清国
しま きよくに
生没年不詳
豊前守。永禄年間の大和平群谷・島氏の当主か。『諸系図纂』では左近の父とあり、興福寺塔頭持寶院を建立したとされるが詳細は不明。『多聞院日記』において永禄十(1567)年六月二十一日に平群嶋城に乱入した庄屋の父であり、豊前守は難を逃れて城から脱した模様である。しかしこの庄屋が左近である確証はなく、以後の清国の消息も不明。

島 友勝
しま ともかつ
1561?〜1600?
通称新助、左近清興の二男とされる(『和州諸将軍傳』)。『和州国民郷士記』に見える修理介と同一人物か。同書では修理介は豊臣秀頼より一万石を知行したとある。関ヶ原合戦にも参加しているようだが同合戦関係の記録では十次郎とあり、また複数の脱出説も存在しており合戦以降の消息は不明。

島 友保
しま ともやす
 ? 〜1485?
『和州諸将軍傳』『増補筒井家記』等にその名が見られ、通称左門、左近友之の父とされる。『大和志料』所収の『巨勢系図官務録』に文明十八(1486)年十二月二十九日に討死した旨の記述があるが、『大乗院寺社雑事記』ではこの戦いを文明十七年とする。しかし左近清興の父とするには年代が合わないため、実在するとしても先代左近の父であろう。

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