島 信勝
しま のぶかつ
1558?〜1600
通称新吉、左近清興の嫡子。関ヶ原合戦において討死したとされる掃部介(『和州国民郷士記』)と同一人物か。天正十三(1585)年の秀吉の紀州征伐に際し、筒井定次に従って出陣し活躍した記録がある。『和州諸将軍傳』では諱は政勝とされ、獺瀬(おそせ)一揆鎮圧の際に活躍したとされる。なお、筒井家移封の際に定次に従って伊賀へ行ったのは信勝で、左近は大和豊田村(吐田氏闕所)にいたとする説もある。関ヶ原合戦の際には前日の杭瀬川の戦いに父左近とともに出陣、本戦では藤堂玄蕃良政を組み伏せて討ち取るが、直後に玄蕃の郎党山本半三郎(異説あり)に討たれたという。関ヶ原合戦関連の軍記物では同合戦を信勝十七歳の初陣とするものもあり、生年は不詳だが総合的に見て『和州諸将軍傳』に見える生年をとりあえず記した。

島津家久
しまづ いえひさ
1547〜1587
貴久の四男で義久・義弘の弟。通称又七郎、中務大輔を称す。串木野のち日向佐土原領主。猛将の名に恥じない活躍をした永吉島津氏の祖。有馬氏に加勢し、沖田畷の戦いで猛将・龍造寺隆信を討ち取る。秀吉の九州攻めの際に奮戦したが、ついには豊臣秀長に降伏。しかしその直後に亡くなったため、毒殺されたとの噂が広まった。

島津貴久
しまづ たかひさ
1514〜1571
伊作島津家忠良の子で、通称又三郎、陸奥守を称す。号は伯囿。知勇兼備の四人の子に恵まれ、本拠地をそれまでの伊集院から内城に移し、家督を義久に譲るまでの間にキリスト教の布教の許可や琉球との貿易奨励など積極的な外交を展開、島津氏の軍事・経済基盤を強固なものにした。

島津忠親
しまづ ただちか
1504〜1571
忠広の二男で豊州島津氏第五代当主。通称二郎左衛門、尾張守のち豊後守を称す。天文十八年に父より日向飫肥領を継ぎ、同二十一年貴久と盟書を交わす。のち飫肥に貴久の二男義弘を養子に迎えて肝付・伊東両氏と対峙するが、永禄十一年には父祖の地飫肥を離れ櫛間から荘内へと逃れた。

島津忠隣
しまづ ただちか
1569〜1587
義虎の二男で歳久の養子となり、のちの日置島津氏第二代当主。通称は三郎次郎。天正十四年の筑紫広門攻めに従軍するが、翌十五年豊臣秀長の大軍と根白坂で戦い討死した。日置島津氏二代ではあるが、実際に日置領が与えられたのは文禄四年、子の常久に対してだという。

島津忠辰
しまづ ただとき
1565〜1593
義虎の子で薩州島津氏第七代当主。名は忠永とも。通称は又太郎、薩摩守を称す。天正十一年、父義虎の代わりに隈本城を守備した。朝鮮の役にも義弘に従軍し渡海、釜山まで行くが病と称して動かなかったため秀吉の怒りに触れ、小西行長に捕らえられ所領を没収された。程なく現地で病歿と伝えられるが異説もある。

島津忠俊
しまづ ただとし
1508〜1549
新納氏庶流実久の二男久顕を祖とする島津氏の家系。忠誉の子で通称は三郎四郎、式部大輔を称す。天文八年、忠良に従い市来攻めに出陣して活躍、軍功をあげ恩賞として赤水郷を与えられた。子孫は後に薩摩鹿籠(かご)領主となる。

島津忠直
しまづ ただなお
生没年不詳
信濃長沼を本拠とした土豪で淡路守、のち月下斎を称す。天文二十二年、村上義清の葛尾城落城時に義清や近隣の土豪とともに越後の長尾景虎を頼る。川中島合戦の際には先陣で奮闘、そのまま謙信・景勝に従った。織田信長没後に旧領に戻り、再び長沼城主となった。

島津忠長
しまづ ただなが
1551〜1610
相州島津氏尚久の子で通称又五郎、図書頭を称す。貴久の甥に当たり、義久・義弘の老中(家老)を務めた宮之城島津氏の祖。永禄十一年の大口攻めを皮切りに、肝付・伊東・大友氏との戦いに活躍、その功により分家出身では唯一人の国老となる。関ヶ原の後、義久の使者として家康のもとに赴いて弁明に務め、薩摩・大隅・日向を安堵された。

島津忠広
しまづ ただひろ
 ? 〜1551
忠朝の子で豊州島津氏第四代当主。名は忠真とも。通称二郎三郎、豊後守を称す。天文十四年に家督を嗣ぐと同時に忠良・貴久父子に臣従を誓い、日向飫肥城主として忠良・貴久の前線となって伊東義祐と交戦し活躍したが、同十八年に家督を二男忠親に譲って日向福島へ隠居したという。

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