島津忠将
しまづ ただまさ
1520〜1561
忠良の二男で貴久の弟、のちの垂水島津氏の祖。名は政久とも。通称又四郎、右馬頭を称す。天文十七年に大隅清水の本田薫親を攻略、以後清水領主となる。蒲生攻めにも活躍し、同二十三年の脇元の戦いでは鉄炮を使用した記録がある。永禄四年の大隅廻城攻めで戦死。
島津忠良
しまづ ただよし
1492〜1568
伊作島津家善久の子で通称菊三郎、三郎左衛門、相模守を称し、のち愚谷軒日新斎と号す。守護の本家勝久や薩州家実久に競り勝ち、ついに子の貴久に本家を継がすことに成功。島津家中興の祖といわれる名君で、薩摩武人の教訓とも言うべき「いろは歌」の創作など軍政両面に際だった功績を残し、後には半ば神格化された。
島津彰久
しまづ てるひさ
1567〜1594
相州島津家以久の嫡子で、のちに垂水島津氏となる。本家当主義久の女婿で、通称又四郎のち守右衛門。天正十二年の島原合戦などで軍功をあげた。朝鮮の役の際にも義弘の子忠恒(後の家久)に従い渡海するが、文禄三年唐島にて病歿した。
島津歳久
しまづ としひさ
1537〜1592
貴久の三男で義久・義弘の弟。通称又六郎、左衛門督を称す。後の日置島津氏の祖で薩摩祁答院領主、吉田地頭。永禄六年の横川攻め以来数々の戦いで軍功をあげる。秀吉の九州攻めの際に病と称して対面せず、加えて朝鮮役の際に叛乱した梅北一党に家臣が加わっていたことが秀吉の怒りに触れ、義久勢に囲まれ重富(竜ヶ水)で自害した。
島津朝久
しまづ ともひさ
? 〜1593
忠親の子で通称藤二郎、豊後守を称す。豊州家第六代。妻は島津義弘の女(御屋地さま)。大隅平房・市成領主のち日向馬関田(まんがた)地頭。天正六年には日向宮崎を領すが、自身は飯野城にあって耳川合戦に従軍し武功を挙げた。同十四年には鷹取城・筑前岩屋城攻めに従軍。文禄の役にも従い渡海したが、文禄二年九月、巨済島にて病没した。
島津豊久
しまづ とよひさ
1570〜1600
貴久四男家久の子で初名は忠豊、通称は又七郎、中務大輔を称す。永吉島津氏二代当主で日向佐土原領主。秀吉の小田原攻めや朝鮮の役で活躍したが、関ヶ原での退却時に阿多盛淳とともに伯父義弘の身代わりになり、敵の刃を一身に受けて壮絶な討死。しかしこの奮戦のお陰で義弘は無事薩摩に帰り着くことが出来た。
島津尚久
しまづ なおひさ
1531〜1562
忠良の三男で相州島津氏を嗣ぐ。薩摩鹿籠(かご)領主。幼名兼安丸、通称は又五郎、左兵衛尉を称す。貴久の弟で義久・義弘の叔父。天文二十三年の岩剣城攻めでの活躍をはじめ、永禄二年の松山城救援戦などでも軍功をあげた。肝付氏との廻城合戦の後に病を得て、永禄五年三月一日に没した。
島津久保
しまづ ひさやす
1573〜1593
義弘の二男で通称は又一郎。天正十五年、日向諸県郡を与えられる。同十七年父義弘とともに上洛して伏見で豊臣秀吉に拝謁、翌年の小田原攻め・奥州攻めに従軍した。朝鮮の役にも父とともに出陣するが、陣中で病を得て唐島で病没した。
島津以久
しまづ ゆきひさ
1550〜1610
忠将の子で佐土原島津氏の祖。通称は又四郎、右馬頭を称す。名は幸久・征久・行久などとも書く。天正元年に禰寝(ねじめ)氏救援に活躍したのをはじめ、同九年の水俣の戦いでも軍功をあげた。大隅清水領主のち慶長八年、日向佐土原三万石の藩主となる。
島津義虎
しまづ よしとら
1536〜1585
実久の嫡子で薩州島津家第六代当主。通称又太郎・三郎太郎・八郎左衛門、薩摩守を称す。名は晴久・陽久・義利・義俊とも。薩摩出水領主。父実久が忠良・貴久と争う中で早くから忠良に従い、天文二十二年に家督を嗣ぐと肥後相良氏への前線となり羽月を守備、天正九年には先鋒となり相良氏を降す。島原合戦にも従軍、軍功をあげている。
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