水原親憲
すいばら ちかのり
1546〜1616
上杉謙信・景勝の家臣。大関阿波守親信の子で越中に生まれる。はじめ大関弥七と称したが川中島の合戦で軍功をあげ、水原家を嗣いだ。景勝の会津移封時には猪苗代城代を務め五千五百石を知行、大坂冬の陣にも活躍した。死後、彼の墓石は「瘧(おこり)」に効くとされ、多くの人が墓石を削って持ち帰ったという。

陶 興房
すえ おきふさ
 ? 〜1539
弘護の子で通称次郎、中務少輔のち尾張守を称す。生年は不明だが誕生は父弘護の没した文明十四年(1482)以前。大内義興・義隆の重臣で周防守護代を務めた。永正五年には義興に従って上京する一方で安芸・九州へも度々出陣、特に九州では少弐・龍造寺・大友氏と謀略戦を含めて激闘を演じた。のち出家して道鱗(道麒とも)と号す。和歌や連歌にも堪能で、飛鳥井雅俊・宗碩らの公家や連歌師とも交流があった。

陶 晴賢
すえ はるかた
1521〜1555
興房の次男。大内義隆の重臣で初め隆房と名乗り、尾張守を称す。吏僚肌の重臣相良武任との確執から主君義隆に謀反、山口大寧寺に義隆を攻めて自害させ実権を掌握する。しかし程なく毛利元就の謀略にかかり安芸厳島におびき出され、元就の奇襲に敗れて島内大江浦で自害した。

陶 弘詮
すえ ひろあき
 ? 〜1523
周防守護代弘房の子で弘護の弟。大内義興の重臣で中務少輔、兵庫頭のち安房守を称す。文明十一(1479)年より横死した兄弘護に代わって周防守護代となる。義興の上京不在中は留守を守り、義興に代わって領国を治めた。文人として知られ、宗祗・兼載・宗碩らと親交があった。「吾妻鏡」を収集し、吉川本「吾妻鏡」を書写させたことでも知られる。

菅名綱輔
すがな つなすけ
 ? 〜1582
越後蒲原郡菅名荘を本拠とした国人で、通称源三、但馬守を称す。上杉謙信・景勝の家臣。御館の乱の際には景勝側につき、景虎方本庄秀綱の拠る栃尾城を攻め、また三条城の神余親綱を牽制した。後に越中に派遣されるが新発田重家が背いたためこの討伐に加わり、重家との放生橋の戦いで戦死した。

菅沼定盈
すがぬま さだみつ
1542〜1604
徳川家康家臣で通称新八郎、織部正を称す。山家三方衆と呼ばれた三河野田城主で、はじめ今川氏に属したが永禄4年家康に属し本領を安堵。武田信玄西上時に野田城を落とされ降伏するが、程なく人質交換により帰還。長篠合戦では酒井忠次麾下で鳶ノ巣山攻撃に参加した。関ヶ原の際には江戸留守居役を務めた。

菅谷長頼
すがや ながより
1555〜1582
通称九郎左衛門、名は菅屋とも書く。小豆坂七本槍の勇将織田造酒介信辰の子。織田信長の近侍で主に行政官として活躍、後織田五奉行の一人に数えられた。信忠付けとなった直後に本能寺の変が起こり、信忠と共に二条御所で討死した。

杉原家次
すぎはら いえつぐ
 ? 〜1584
豊臣秀吉の臣。家利の長男で通称七郎左衛門。秀吉の妻ねねの伯父で播磨三木城代・近江坂本城代のち福知山城主。秀吉の側近で信頼が厚く、京都所司代や大坂築城時の御金蔵御番役も務めている。一方、播磨三木城攻め、備中高松城攻めや鳥取城攻め等でも活躍、高松城攻めでは清水宗治切腹の検死役を務めた。長久手の戦いに出陣中の天正十二年九月九日に陣没。

杉原長房
すぎはら ながふさ
1574〜1629
家次の子で通称弥兵衛、伯耆守を称す。豊臣秀吉の家臣で近江坂本・豊後杵築を経て最終的には但馬豊岡城主兼播磨三木城代。関ヶ原の際には西軍に属し丹後田辺城攻めに加わるが、北政所の従兄弟で義父が浅野長政ということもあり本領安堵、常陸小栗郡で三千石の加増を受けた。大坂の陣では寄せ手に加わった。

鈴木佐太夫
すずき さだゆう
 ? 〜1585
紀州の土豪で鉄砲集団・雑賀党の頭領を務めた紀州雑賀城主。熱心な浄土真宗の宗徒で本願寺に協力し、石山合戦ではその鉄砲隊の威力で信長を長期間苦しめた。秀吉の紀州攻めの際、藤堂高虎に欺かれ粉河寺で切腹したとの説があるが、これが佐大夫のことであると断定できる確証はない。

次の10人

INDEX

iモード戦国浪漫