太源崇孚
たいげん すうふ
1496〜1555
太源は道号、通称は雪斎和尚。今川義元の軍師として知られる臨済僧。政治・軍事にも優れた才を持ち、小豆坂合戦で織田信秀を破り安祥城を攻略、また外交にも活躍した。兵学に詳しく、徳川家康は駿府における人質時代に、この崇孚から多くを学んだと伝えられる。
大宝寺義氏
だいほうじ よしうじ
1551〜1583
義増の子で出羽田川郡尾浦城主、武藤義氏とも。幼時に人質として上杉謙信のもとに送られ、家督相続後は謙信の軍事力を背景に在地領主を服属させ庄内地方を統一したが、その過酷な政治により「悪屋形」と呼ばれた。天正十一年最上義光に通じた重臣前森蔵人に攻められ、城の裏山で自刃した。
大宝寺義増
だいほうじ よします
? 〜1581
出羽の国人武藤左京亮の子で、従兄弟の武藤晴時の跡を嗣いで田川郡尾浦城主となる。武藤義増とも。上杉謙信傘下の武将であったが、永禄十一年に本庄繁長の謀反の際、一時繁長側に加担するが程なく子の満千代(義氏)を人質に差し出して和睦を願い出た。
高木清秀
たかぎ きよひで
1526〜1610
徳川家康家臣。幼少時より水野信元に仕えて三河一向一揆平定に活躍、のち織田信長のもとで姉川・長篠合戦などに従軍。本能寺の変の後家康に招かれ家臣となり、千石を知行。最終的には武蔵他で五千石を領した。
高梨政頼
たかなし まさより
? 〜1576
信濃高井郡・水内郡を本拠とした国人で父は澄頼。中野城(館)主。天文年間、村上義清らとともに北信濃に侵攻してきた武田信玄と争うが、支えきれず越後の上杉輝虎(謙信)を頼る。以後謙信麾下に属し川中島の合戦では先鋒の一角を務め奮戦するが、旧領回復を見ずに世を去った。
高野兼親
たかの かねちか
? 〜1601
壱岐守、名は知安とも。伊達政宗の家臣で陸奥伊具郡丸森城主。政宗の下で奉行職を務め、仙道高倉・窪田郡山・相馬の役に戦功を挙げ丸森城千石を与えられる。さらに大崎一揆討伐・文禄の役にも活躍、国老に昇格した。
高橋紹運
たかはし じょううん
1548〜1586
本名は鎮種(しげたね)。筑前宝満・岩屋城主で、立花宗茂の実父。岩屋城の戦いにおいて島津5万の大軍をわずか数百で迎え、徹底抗戦の末に一人残らず玉砕という壮絶な最期を遂げた大友家の名臣。
多賀谷重経
たがや しげつね
1558〜1612
常陸下妻城主政経の子で初名は大二郎、修理大夫を称す。豊臣秀吉の小田原攻めの際参に陣して謁見、所領安堵されるが朝鮮の役では出兵しなかった。関ヶ原の際に西軍に属し失領、佐竹氏に従って秋田に行ったとも、放浪して客死したともいう。
高山右近
たかやま うこん
1552〜1615
友照の子で本名は重友。はじめは織田信長の重臣・荒木村重に属した高槻城主のキリシタンで、受洗名はジュスト。後に改宗を拒否して国外追放され、追放先のマニラで程なく病死。
滝川一益
たきがわ かずます
1525〜1586
左近将監。信長の重臣で鉄砲に長じ、後に関東管領に。甲賀忍者上がりとの説もある。本能寺の際に北条軍と戦って敗れ、このため清洲会議では発言権を失う。後に秀吉に降伏、隠居先の越前大野にて病没。
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