滝川雄利
たきがわ かつとし
1543〜1610
伊勢安濃津の土豪木造具政の二男で通称三郎兵衛、のち刑部卿法印一路を称す。はじめ僧籍にあり主玄と号したが、還俗し滝川一益の婿養子となり織田信雄に仕える。のち秀吉に御咄衆として仕え、関ヶ原の際には西軍に加担し失領。程なく家康に召し出されて常陸片野二万石を与えられ、御咄衆として仕えた。
武田勝頼
たけだ かつより
1546〜1582
武田信玄の四男で信濃高遠城主のち甲斐新府城主、母は信玄に謀殺された諏訪頼重の娘。幼名四郎、元服後諏訪氏を称すが信玄死去により家督を相続。猛将として知られたが、相次ぐ身内の離反や長篠の敗戦で武田家そのものが弱体化、織田・徳川両軍に攻め込まれ最後に頼った重臣の小山田信茂にも欺かれ、天目山の麓・田野にて妻子と共に自害した。
武田信玄
たけだ しんげん
1521〜1573
甲斐守護武田信虎の嫡男。はじめ晴信、のち入道して信玄を称す。軍政・外交・謀略すべてに優れた名将で、無敵の騎馬軍団で知られる戦国時代の巨星。惜しむらくは北隣に上杉謙信という偉大なライバルがいたため、思うように版図は拡大できなかった。上洛途中に持病の労咳が悪化、遠江三方ヶ原に家康を撃破したが帰国途中に信州駒場の陣中で病没。
武田信廉
たけだ のぶかど
? 〜1582
武田信玄の弟で信虎の四男(六男とも)。はじめ刑部少輔を称し、信玄没後に出家し逍遙軒信綱と改名。元亀二年勝頼に代わり信濃高遠城主を務め、のち伊那郡大島城主となる。天正十年織田勢の侵攻の前に無抵抗で信忠に捕らえられ、甲府相川で処刑された。絵画に才能があり、父(信虎)・母(大井夫人)の画像など多数の秀作を残した。
武田信繁
たけだ のぶしげ
1525〜1561
武田信虎の二男で信玄の弟。通称左馬助、(古)典厩を称す。父信虎は信繁を跡取りにしようと考えていたほど軍政両面に秀でていたと伝えられる。信玄はじめ家臣の信望も厚く、信玄の補佐役に徹した名将であったが、永禄四年の川中島の合戦にて奮戦虚しく戦死した。
武田信虎
たけだ のぶとら
1494〜1574
武田信縄の子で甲斐守護。対立していた叔父信恵を滅ぼし、甲斐を統一。暴君の評判が高く、信玄を廃そうと考えたことから逆に国を追われ駿河へ追放され、今川氏の庇護を受ける。後に京で隠居中に孫の勝頼から帰国を認められたがすでに発言権はなく、信濃高遠城で病没した。
武田元繁
たけだ もとしげ
? 〜1517
安芸守護武田氏の末裔で、佐東郡銀山城主。はじめ大内義興に属したが、永正12年義興に背いて銀山城に隣接する城砦に攻撃を加えたため、義興傘下の武将毛利・吉川氏と衝突。翌々年山県郡有田城攻めに出陣した際、救援に駆けつけた毛利・吉川連合軍に敗れて戦死した。
武田義信
たけだ よしのぶ
1538〜1567
武田信玄の嫡男で母は公家三条公条(きんえだ)の娘。妻は今川義元の娘。元服時に将軍足利義輝の偏諱を受け義信を名乗る。永禄四年の川中島合戦以来父信玄と対立、永禄八年重臣飯富虎昌らとともに謀反の嫌疑をかけられ虎昌は切腹、義信は東光寺に幽閉され、二年後に自害させられた。
竹中重治
たけなか しげはる
1544〜1579
元斎藤龍興の家臣で通称半兵衛。のち信長に仕え秀吉に属す。その容貌や的確な状況判断から羽柴家の諸葛孔明と言われ、羽柴秀吉時代の数ある戦功の大半はこの重治の活躍に負うところが大きい。しかし生来病弱だったため、秀吉に従って中国平定出陣中に姫路の陣中で病没した。
竹俣慶綱
たけまた よしつな
1524〜1582
上杉謙信・景勝の家臣で越後蒲原郡竹俣城主、三河守を称す。竹俣氏は「揚北衆」と呼ばれる国人の一人で、同郡加地荘を本拠とした。天正九年から越中魚津城の守備に就くが、翌年織田勢の総攻撃の前に落城、山本寺景長・中条景泰・吉江宗信らとともに自刃した。
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