多湖辰敬
たご ときたか
? 〜1562
尼子家の重臣で特に内政能力に優れ、寺社奉行を務めた石見国刺賀岩山城主。毛利元就の侵攻を何度も撃退するがついには戦死。十七ヶ条から成る「多湖辰敬家訓」を残した。
立花宗茂
たちばな むねしげ
1567〜1642
通称左近将監。実父は筑前岩屋城主高橋紹運(鎮種)、義父に立花道雪をもつ筑後柳川の勇将。はじめ統虎、晩年は立斎を称す。関ヶ原の際には西軍に加担したため、戦後所領を没収され奥州棚倉一万石へと減封されたが、私利私欲のない行動は家康にも高く評価され、元和六年に筑後の旧領柳川十一万石の主に復した。
立原久綱
たちはら ひさつな
1531〜1613
尼子家の重臣で晴久・義久・勝久三代に仕えた出雲大原郡加茂立原城主。幸綱の二男で通称は源太兵衛、山中鹿介幸盛の叔父に当たることから鹿介とともに行動して主家再興に尽力した。しかし武運拙く、勝久自刃(上月城落城)の際に吉川元春に捕らえられるが脱走、信長の下に身を寄せ出家し珠栄と号した。晩年は娘婿の福屋隆兼を頼って阿波へ赴き、慶長十八年に同地の渭津で没した。
田手宗時
たて むねとき
1551〜1582
伊達輝宗の家臣で通称右門、式部を称した伊具郡角田城主。父宗光は相馬氏のもとに奔るが、宗時は残り本領を安堵される。天正十年、相馬の役の際に出陣、奮戦むなしく討死した。
蓼沼友重
たでぬま ともしげ
生没年不詳
通称藤七、上杉謙信・景勝の家臣で泰重の弟。御館の乱の際には景勝側につき、旗持城に籠もって敗走してきた景虎軍を邀撃、翌年には鯨波に景虎軍を撃破。のち新発田重家の謀反の際には阿賀野川河口で重家勢の兵船を撃破した。
蓼沼泰重
たでぬま やすしげ
? 〜1582
通称掃部助、上杉謙信・景勝の家臣で友重の兄。天正九年、景勝に命じられて越中魚津城の守備に就くが、翌年六月三日に織田勢に総攻撃をかけられ落城、守将の山本寺景長・吉江宗信・竹俣慶綱らとともに自刃した。
伊達定宗
だて さだむね
1574〜1652
亘理重宗の長子で通称源五郎、安芸守。伊達家の重臣で政宗に重用された。慶長五年の白石城攻めや大坂の陣で活躍、伊達姓と一万石を与えられて一門に列せられた。次男安芸守宗重は仙台藩の柱石といわれる。
伊達実元
だて さねもと
1527〜1587
伊達稙宗の三男、兵部大輔。天文七年越後守護上杉定実との養子縁組が成立、これを機に定実の偏諱を受け実元と改名。しかし越後ではこれに反対した内乱が起き、伊達家でも「天文の乱」が起きたため実現はしなかった。のち家督を嫡子成実に譲り信夫郡八丁目城に隠居、棲安斎と号した。
伊達成実
だて しげざね
1568〜1646
実元の子で通称藤五郎、安房守を称す。仙道人取橋合戦・郡山合戦・摺上原合戦などで戦功を挙げ、伊達家一門衆の勇将として政宗に重用された。一旦伊達家を去り高野山に入ったが復帰して亘理城主となる。伊達政宗の一代記「成実記」の著者としても知られる。
伊達稙宗
だて たねむね
1488〜1565
左京大夫。政宗の祖父で奥州伊達家の礎を築いた。子の晴宗との間に内紛問題(洞の乱)も起こったが、分国法で名高い「塵芥集」を著すなど政治手腕も優れた。
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