土肥親真
どい ちかざね
 ? 〜1583
もと能登守護畠山氏の家臣で末森城主、通称は但馬。天正四年、上杉謙信の能登侵攻時に和を結ぶが場当たり的な行動をしたため疑われ、結局人質を出して織田信長に属す。のち柴田勝家の加賀侵攻時には一揆勢を掃討、続いて能登に入国した前田利家に仕えた。

道家清十郎
どうけ せいじゅうろう
 ? 〜1570
織田信長の家臣で馬廻衆を務める。尾張春日郡出身で(美濃説もあり)、弟の助十郎とともに度々武功を顕わし、信長から直々に「無双道家」の旗印を許されたという。1570年近江宇佐山城を浅井・朝倉連合軍に攻められた際、守将の森可成とともに討死した。

東郷重位
とうごう しげかた
1561〜1643
島津氏家臣で通称藤兵衛、長門守のち肥前守を称す。薩摩坊泊地頭で剣術薩摩示現流(初期は日天真正自顕流)の開祖。家久に従って上洛した際に京で善吉和尚(俗名赤坂弥九郎)に剣の奥義を学び、薩摩へ帰って修練に励み自顕流(後に文之玄昌の助言で示現流と改名)を創始した。義久・家久に仕え、薩摩藩および家久の剣術指南役になった剣豪武将。

東郷重虎
とうごう しげとら
生没年不詳
島津家久の二男で名は忠仍とも。通称源七郎、薩摩守を称す。天正五年に渋谷五族東郷氏の養子となり、十六代当主となる。薩摩鶴が岡城主として出水・野田・高尾野・阿久根・長島を本領としたが、天正十五年義久に没収され日向佐土原に移る。文禄二年には義弘の命で島津家に戻り忠直と改名した。

藤堂高虎
とうどう たかとら
1556〜1630
和泉守。浅井氏に始まり徳川家外様筆頭となるまで7度も主家を変え、戦国を生き抜いた。先見の明があり処世術に優れ、いち早く権力者に取り入り戦国の荒波を泳ぎ切った伊勢・津二十二万石の主。築城の名手としても知られる。

藤堂良政
とうどう よしまさ
 ? 〜1600
通称玄蕃。はじめ豊臣秀次に仕え、秀次失脚後に藤堂高虎から同姓の誼をもって伊予に招かれ仕える。関ヶ原合戦時には高虎から留守を命じられたが、密かに後を追いかけて参戦したという。関ヶ原合戦関連の諸書では九月十五日の本戦で島左近の子・新吉信勝と戦い、組み伏せられて討ち取られたと伝える。

戸川逵安
とがわ みちやす
1567〜1627
肥後守。宇喜多家の重臣秀安の子で天正十年に家督を嗣ぐ。宇喜多秀家に仕え侍大将を務めたが、慶長四年のいわゆる宇喜多騒動で主家を去り、関ヶ原合戦時には浪人として東軍に参加、加藤嘉明のもとで陣借りして奮戦したという(異説あり)。合渡川の戦いで一番槍の功を挙げたとされ、戦後に備中庭瀬二万九千石余を拝領、同藩初代藩主となる。戸川家の伝承では本戦で石田三成の将島左近を討ち取ったとし、左近着用と伝える鎧兜が同家に保存されていた。鎧は焼失したが兜は久能山東照宮博物館(静岡市)に、忍緒が戸川家記念館(岡山県早島町)に現存する。

土岐治英
とき はるふさ
 ? 〜1585
美濃守護土岐頼芸の甥治頼の子。下総江戸崎城主で大膳大夫を称す。北条氏康に通じ、上杉謙信の関東進出により本拠を追われた小田氏治らとともに反佐竹・多賀谷勢力の中心的存在となった。

土岐頼芸
とき よりあき
1502〜1582
美濃守護土岐政房の二男で十一代守護。通称二郎、左京大夫、美濃守。家臣の斎藤道三(当時は西村勘九郎)の力によって兄の政頼(頼純)を追い、家督を嗣ぐことに成功。しかし天正十一年に道三と対立し尾張へ逃れ、一度和睦により帰国を果たすが同二十一年に再度追い出されて流浪。上総万喜城にいた天正十年に稲葉一鉄に迎えられて帰国を果たすが、同年病没した。

常田隆永
ときだ ただなが
 ? 〜1570
真田幸隆の弟。出羽守隆家ともいう。上野箱岩城代で兄幸隆とともに各地を転戦した。特に1563年の上杉勢の箱岩城来襲時には、子の俊綱が戦死したくらいの激戦だったが奮戦し城を守った。後に出家し道尭を名乗る。

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