徳川家康
とくがわ いえやす
1542〜1616
江戸幕府初代将軍。桶狭間での今川義元戦死を機に独立、織田信長の同盟者として信頼される。信長の命により長男の信康を切腹させるなど幾多の試練にも堪え忍び、ついには秀吉の没後に諸大名を集めて関ヶ原の合戦に石田三成を破り天下を掌握。1603年には江戸幕府を開き、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼして太平の世を築いた戦国の最終勝利者。
徳川信康
とくがわ のぶやす
1559〜1579
徳川家康の嫡男。英邁の資質を持っていたと伝えられ家康の期待も大きかったが、信長の娘である妻・徳姫の訴えで母の築山殿とともに武田家内通の濡れ衣を着せられ、信長の命により遠江二俣城で切腹。また築山殿は家康の命により遠江富塚で家臣に殺された。
土佐林禅棟
とさばやし ぜんとう
生没年不詳
能登守、杖林斎を号す。出羽庄内藤島城を本拠とした国人で、尾浦城主大宝寺(武藤)義氏の傘下に属す。本庄繁長が上杉謙信に背いた際、義氏ははじめ繁長に加担するが、禅棟を和睦の使として謙信に派遣。のち本庄方の藤掛城攻略の大将を務めたが元亀元年に義氏と対立、一旦和解するが再度決裂、成敗された。
戸沢道盛
とざわ みちもり
1524〜1604
飛騨守。奥州の名族で戸沢氏十六代当主の出羽角館城主。わずか六歳にて家督を継いだが、若くして隠居の身に。晩年は移封先の常陸小河城で過ごし、同地で没した。
戸沢盛安
とざわ もりやす
1566〜1590
道盛の子で通称九郎、兄盛重の跡を継いだ戸沢氏十八代当主の出羽角館城主。南部氏からの独立を画策して対立、小野寺義道・秋田実季らと戦った。武勇の誉れ高い勇将で、夜叉九郎(鬼九郎)と呼ばれ怖れられたが、秀吉の小田原攻めに従軍中、その陣中で病没した。
利光鑑教
としみつ あきのり
? 〜1586
豊後大友氏の一族で名は「かねのり」とも。大分郡鶴賀城(鶴ヶ城・利光城とも)主で武蔵守のち越前入道宗魚と号した。天正十三年には大友宗麟の薦めでキリシタンになったと伝えられる。天正十四年十二月、鶴賀城へ迫った島津家久は降伏勧告をするが宗魚はこれを拒否。壮絶な籠城戦となり、秀吉の援軍仙石・十河・長宗我部勢の到着寸前に敵の矢に射られて戦死した(一説に鉄砲で狙撃とも)。
戸田氏鉄
とだ うじかね
1576〜1655
一西(かずあき)の子で通称左門、従四位下采女正。入道号常閑。徳川家康に従って武功を挙げ、慶長八年に家督を嗣いで近江膳所藩主(三万石)となり、摂津尼崎藩五万石を経て寛永十二年七月に美濃大垣藩十万石の主となった。大坂城修築や島原の乱の際に活躍、また自領では新田開発や治水事業などを行い大垣発展の基礎を築いた名君として知られる。
戸田重政
とだ しげまさ
? 〜1600
勝隆の弟で名は勝成・勝重とも。はじめ丹羽長秀、のち豊臣秀吉に仕え通称は半右衛門、武蔵守を称した越前安居城主。関ヶ原の戦いでは西軍に属し大谷吉隆(吉継)の指揮下で奮戦したが、織田有楽斎の子長孝に討たれた(一説に津田信成とも)。東軍諸将に知己が多く、彼の死を聞いてみな泣いたという。
富田重政
とだ しげまさ
1554〜1625
前田利家家臣。佐々成政との激戦・能登末森城の合戦では一番槍の功名を挙げる。中条流剣術の達人で知られ、「名人越後」の異名を持つ加賀藩の剣術指南役として一万三千石余を領した。後に金沢に慈雲寺を開基した。
富岡重朝
とみおか しげとも
生没年不詳
通称主税助、下野の国人小山高朝の子で上野小泉城主。はじめ古河公方足利氏に属すが、上杉謙信の関東進出を機に館林城攻撃に参加、上杉傘下となる。しかし由良成繁の離反と同時に北条氏に属し、謙信が成繁の金山城を攻めた際には籠城して抗した。
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