上村頼孝
うえむら よりよし
 ? 〜1567
肥後相良氏の重臣。頼興の二男で左衛門大夫を称す。相良氏を嗣いだ晴広の弟で肥後上村(麓)城主。父頼興没後の弘治三年、甥の相良義陽に兄弟揃って背くが(上村三兄弟の乱)、察知した義陽側に城を落とされ飯野へ逃れた。永禄三年に義陽の説得により帰参し水俣城に入るが、同十年に討っ手を向けられて自害した。

植村家政
うえむら いえまさ
1541〜1577
徳川家康の家臣で名は家存(いえさだ)ともいう。出羽守。旗本先手の将から四家老の一人に昇進、軍政諸事にわたり家康を支えた。特に上杉謙信との同盟に尽力した家康の三河統一期における功臣。

植村正勝
うえむら まさかつ
1535〜1592
徳川家康の家臣。家康の幼少時から近侍を務め、三河一向一揆の際には改宗して家康側につく。長篠合戦・高天神攻めなどでに活躍したが、小田原攻めの際軍令を理由に秀吉の側妾達を通さなかったことから秀吉の怒りを買い、所領を没収された。

宇喜多直家
うきた なおいえ)
1529〜1581
和泉守。旧主の浦上宗景を謀略にかけて讃岐へ追い出し、備前・美作二国と播磨の一部を入手して独立大名となった。対立する相手を次々と仕物(暗殺)にかけ、実弟忠家をして直家の死後に「いつも兄にはおびえていた」と言わしめたほどの戦国屈指の謀略家。

宇喜多秀家
うきた ひでいえ
1572〜1655
直家の子で通称八郎、初名は家氏。岡山城主で備前中納言と呼ばれ、豊臣家五大老の一人。朝鮮の役の際には碧蹄館の戦いで活躍。しかし関ヶ原で敗れて薩摩の島津家にかくまわれる。島津義弘らの嘆願により死一等を減じられ八丈島へ遠流となり、当地で病死するまで五十年を島で生き抜いた。

宇佐美定満
うさみ さだみつ
1489〜1564
房忠の子、駿河守を称す。上杉謙信の重臣で越後琵琶島城主。天文四年上条定憲に味方して長尾為景と戦うが、後景虎(謙信)に仕えた。野尻湖にて舟遊び中に舟が転覆し、同乗の長尾政景とともに溺死。一説には謙信の命により定満が事故を装って政景を暗殺したともいわれる。

氏家直元
うじいえ なおもと
 ? 〜1571
通称ト全。官称は常陸介。斎藤道三・義龍・龍興の重臣で、西美濃三人衆の一人に数えられる美濃大垣牛屋城主。龍興の代に織田信長に通じ、以後近江箕作城攻め・伊勢大河内城攻め・近江穴太の戦いなどで活躍するが、柴田勝家に従い参戦した伊勢長島一揆攻めの際に討死。

氏家行広
うじいえ ゆきひろ
1546〜1615
直元の二男で通称久左衛門、内膳正を称す。初め兄行隆の後を嗣いで美濃大垣城主、のち美濃三塚城主を経て伊勢桑名城主に。関ヶ原の際には弟行継とともに西軍に属し桑名城に籠城するが開城、戦後失領。大坂の役で豊臣秀頼に召されて入城、落城とともに秀頼に殉じた。

宇多頼忠
うだ よりただ
 ? 〜1600
豊臣秀長・秀吉の家臣で、石田三成の妻の父。官称は下野守。はじめ豊臣秀長に属し大和で一万三千石を給されるが、秀長歿後は秀吉に仕え、関ヶ原の際には近江佐和山城に移って守備を固める。西軍敗退の後、叛将小早川秀秋に佐和山城を攻め落とされ、子の頼重とともに自刃した。

宇都宮国綱
うつのみや くにつな
1568〜1607
広綱の子で下野宇都宮城主。北条氏政の攻勢に屈して人質を送る一方、小田原攻めに参加し秀吉から本領安堵を得た。しかし後に浅野長政との間に確執を生じ所領を没収され、回復を見ぬまま失意のうちに歿した。

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