柳本賢治
やなぎもと かたはる
 ? 〜1530
弾正忠。丹波八上城主波多野稙通・細川高国の重臣香西元盛の弟。大永六(1526)年七月に元盛が丹波守護細川尹賢に謀殺されたことから細川晴元に通じ、丹波の国人衆を率いて兄稙通とともに挙兵、高国に反抗した。翌七年二月に山城桂川原で高国勢を破り入京、享禄元(1528)年閏九月には大和へ侵入した。翌年にかけ再三大和を侵略するが、高国方についた浦上村宗攻撃に出陣中の享禄三(1528)年六月二十九日、高国の放った刺客に播磨東条谷玉蓮寺の陣中で殺された。

簗田政綱
やなだ まさつな
1516〜1579
尾張・九之坪の郷士で通称弥次右衛門、左衛門尉のち出羽守。織田信長の家臣で、桶狭間合戦の際に今川義元本陣所在地の情報を探り出して道案内を引き受け、戦後勲功第一として沓掛三千貫を与えられた。天正三年に加賀天神山城主となるが再起した一向一揆の鎮圧に失敗、自ら安土に蟄居した。天正七年六月六日没と伝わる。

山浦景国
やまうら かげくに
生没年不詳
信濃葛尾城主村上義清の子。通称源五、名ははじめ国清。義清が武田信玄に信濃を追われて上杉謙信を頼った際に父と同行、以後謙信の家臣となり外交・合戦・守備に活躍。天正七年に山浦氏の後を嗣ぎ、景勝の一字を拝領し景国と改名。関ヶ原の後は陸奥安達郡塩之森城代を務めた。

山岡景佐
やまおか かげすけ
1531〜1589
美作守景之の二男で対馬守。もと六角氏に属した南近江の土豪で、近江膳所(ぜぜ)城主。名は景佑(景成)ともいう。本能寺の変の際には兄景隆とともに帰国する家康を護衛した。のち秀吉に属したが、賤ヶ岳の合戦の際に柴田勝家に内通したとされて所領を没収、のち徳川家康に仕え駿府に移った。法名宗入。

山岡景隆
やまおか かげたか
1525〜1585
美作守景之の長子で美作守を世襲。もと六角氏に属した南近江の土豪で、近江勢多(瀬田)城主。父景之に続いて江南の旗頭と呼ばれ、山岡一族を束ねた。本能寺の変時に明智光秀の誘いを蹴り、瀬田の唐橋を焼き落として対抗したことは有名。この後は秀吉に属したが、賤ヶ岳の合戦の際に柴田勝家に内通したとされて所領を没収、天正十三年正月十四日に幽居先の甲賀郡毛牧(もびら)邑で歿した。

山岡景之
やまおか かげゆき
生没年不詳
従五位下美作守。景就(景澄)の子で近江勢多(瀬田)城主。名は景久・景直(猶)・景冬とも。六角氏に属した南近江の土豪で、若くして父景就が死去したため隠居していた祖父景綱が勢多城に戻って景之を補佐した。文明・永正年間に江南の旗頭となり、数々の軍功を挙げる。妻は和田伊賀守惟政の娘。

山岡重長
やまおか しげなが
1544〜1626
小成田長俊の子で前名小成田総右衛門。伊達輝宗・政宗の家臣で伊具郡金山城主。大崎の役では軍奉行を務め、また文禄の役では釜山で一騎駆けの若武者(実は女性)を生け捕ってこれを連れ帰り妻としたというエピソードを持つ。文禄三年政宗と共に秀吉に謁した際、命により山岡志摩と改名。大坂の陣の際にも活躍した。

山県昌景
やまがた まさかげ
1530〜1575
武田家重臣。信玄の重臣・飯富虎昌の弟で、初め飯富源四郎と称したが信玄の命で甲斐の名族・山県氏の名跡を継ぐ。「山県の赤備え」と呼ばれ恐れられた無敵の騎馬軍団を率いた。長篠の戦いでは再三の諫言も勝頼には聞き入れられず、全滅を覚悟の上で敵方の鉄砲隊に突撃を繰り返し、壮絶な戦死を遂げた。

山口宗永
やまぐち むねなが
1545〜1600
豊臣秀吉の家臣。光広の子で名は正弘・宗長とも言い、玄蕃頭を称す。秀吉の養子秀俊(小早川秀秋)の後見人に命ぜられ、秀秋の越前移封とともにこれに従い、加賀大聖寺六万石を領した。関ヶ原の際には西軍に属し、籠城して前田利長勢の攻撃を支えたが、あまりにも兵力差があり力尽きて自刃した。

山崎片家
やまざき かたいえ
1547〜1591
父は丹後守宗家。元六角義治家臣で志摩守を称した近江山崎城主。主君義治に女婿を謀殺されたため離反、以後織田信長に属す。後には秀吉政権下で摂津三田城主に任命された。

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