飯岡の渡しと穴山梅雪の墓
(京都府京田辺市飯岡)
飯岡地内から見た飯岡の渡し

飯岡の渡し舟 飯岡(いのおか)の渡しと
穴山梅雪の墓


 草内の渡しの少し南に飯岡の渡しがある。上の写真は飯岡地内から見た飯岡の渡し付近、右の写真は飯岡地内の公園に設置された「渡し舟」である。

 家康一行に少し遅れて木津川にさしかかった穴山梅雪主従は、先の草内付近で一揆に襲われ、殺されたとも自刃したともいう。一説に、今後の梅雪の存在が邪魔になると考えた家康が、野伏を用いて殺害させたとも言うが、これはどうだろうか。そして、先述の『雍州府志』によると、後に土地の者が草地渡の西岸付近に墓を建てたが、木津川の水害を被る恐れがあるため飯岡の浄土宗の寺(西方寺か)に移し、それが現在残るものだと伝えられている(写真下)。

穴山梅雪の墓  確かに本国へ帰り着いてから甲斐侵攻を開始した家康の行動を見ると、あながち荒唐無稽な話だとは言い切れない面もあるかもしれない。しかし、先の『雍州府志』の記述もあり、私はやはり梅雪の奇禍は、全くの偶然か、彼の従者が引き起こした突発的かつ気の毒な事件で、家康は梅雪には害意を持ってはいなかったと思いたい。なお、『徳川実記』では、明智光秀が土民に命じて家康を討ち取ろうと手はずを整えていたが、肝心の家康を討ちもらし、捨てて置いても害のない梅雪を誤って殺害してしまい、「我が命運の拙さよ」と悔しがったという話が書かれてある。
 なお、墓の写真をクリックすると、先の「普賢寺谷〜興戸」の項でも述べた、梅雪の伝承を記した立て札画像にリンクする。

 さらに、本能寺の変には家康が関わっており、この本国への帰還経路も、実は予め用意しておいたものという説まである。「歴史は勝者によって創られる」のはある程度事実であっても、この場合そこまで考えてしまうと、後が非常に味気なくなってしまう。ということで、「歴史を楽しむ」上でも、ここではそういう説は採らず、ご紹介だけにとどめておく次第である。

 ただ一つはっきりしていることは、家康は無事に本国へたどり着いたが、梅雪はついに国元へは帰らず、今なおここ飯岡の地に眠っているということである。


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