草内の渡し
(京都府京田辺市草内)
山城大橋から見た草内の渡し

草内の渡しの碑 草内(くさじ)の渡し

 木津川の渡しがある草内は、「くさじ」または「くさち」と読む。ここでは他に「草路」という表記も見られることから、「くさじ」と読んでおくことにする。ただし、現在の地名は「くさうち」である。
 上の写真は山城大橋上から見た草内の渡し付近、右の写真は木津川西岸に残る草内の渡しの碑である。

 家康一行は、山口(宇治田原)城主山口甚介の出迎えを受けて無事にここを通過したが、少し遅れて木津川にさしかかった穴山梅雪主従十二名は、ここ草内付近で土民に襲われ、殺されたとも自刃したともいう。本稿とは少し方向がそれるが、ここから程近くにあるもう一つの渡し「飯岡の渡し」と、飯岡共同墓地にある梅雪の墓を、おまけとして こちら にUPしておくことにする。

 ところで、この草内の渡しを通過した際に、本多忠勝のエピソードが「名将言行録」に見られるのでご紹介することにしよう。

「忠勝、殿若し國に還り給はんと欲し給はゞ、某既に道を知れりと言ひ、即ち蜻蛉切を提げ奮然として、徑に村落に入り、父老を劫して曰く、我三河に行んと欲するに路を知らず、汝其路を知るべし、速に我を先立て行け、然らずんば、汝を殺さんと言ふ。  父老怖れて先導す、進み前村に至る、又父老を劫し、先導せしめ、然る後前の父老を還す。斯の如くして進み、数十村を過ぎ、漸々木津川に至る。舟なくして濟るべからず、偶ま柴を積みたる舟二艘来る。忠勝舟子を喚て船を回し来るべしと言ふ。舟子此は柴を運ぶ舟にして、川を濟す舟にあらずと言ふ。  忠勝怒り、鳥銃を放て之を虚喝す。舟子大に怖れ、舟を回し来る。忠勝舟子を睨み柴を棄よと言ふ。舟子甚だ惜み柴を棄ることを肯せず、忠勝矛刃を露し叱て曰く、汝命惜からずや、何ぞ柴を棄ざると、舟子大に怖れ、柴を水中に棄て乃ち渡る。忠勝乃ち鎗のいしづきを以て二艘の舟底を突き水に沈む。家康既に木津川を渡り、多羅谷に至る」

 「蜻蛉切」とは、知る人ぞ知る、忠勝が天下に誇る名槍である。こんなものを振り回されて脅かされた日には、たまったものではない。ともあれ、家康一行は何とか無事に対岸へと渡り、山口甚介の待つ山口城へと向かった。



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