長編歴史小説
大坂の華
by 佐山 寛
第二章
死 闘
四(つづき)
孫市殿、かたじけない。元丹先生、深手でござる。よろしゅうお願いいたします」
「はいはい、どれ」
斎藤元丹は名医の呼び声高い医者で、年齢は六十過ぎだが実に矍鑠(かくしゃく)としたものである。傷を見て一瞬厳しい表情になったが、すぐにこにこしながら銀次に話しかけた。
「おや、これは鼠にでもかじられましたかな。不覚でしたな、ははは」
その声につられたように銀次が言った。
「先生、やられましたよ。大鼠は手強い」
「いやいや、かじられ方がうまかったので命には別状ない。十日もすれば大丈夫、一月もすれば外へも出られますぞ」
元丹は持参した薬篭より数種類の薬を取り出して調合し、練り薬を造り上げた。それを銀次の傷口に丁寧に塗りつけるとさらしにて固く巻き上げた。今でいう局所麻酔薬的な成分でも含まれているのか、しばらくすると銀次がまた言った。
「元丹先生は誠に名医、腕の痛みが嘘のようになくなりました。この分ならすぐにでも動けるような気がします」
「これこれ、何を言われる。十日ですぞ、十日。それまでくれぐれも安静にしていなされ」
「わかりました。先生のおっしゃる通りにいたします」
周りの顔ぶれも最初は緊張していたようだが、このあたりになると笑みもこぼれてきた。重吾が言う。
「先生、ありがとうございました。あとどのようなことに注意すれば…」
「ま、怒気を発せぬことじゃ。十日後にはまた参ろう。それまでに何かあれば呼びに来て下され」
元丹は後片づけをすると、皆に見送られながら飄々と帰っていった。
「これは容易ならぬ事になったな。三郎太、敵の内容はどうであった」
「はい、忍びの者が十名足らず。あとかけつけてきた軍勢は弓鉄砲が半々の二十名余りで」
「重吾殿、もしや兄者や左近の殿の身にも…。私はこれからすぐに後を追います」
「孫市殿、安心されよ。左近の殿は滅多なことではやられはしません。それより、最早徳川方の忍びとの全面対決は避けられませぬ。何とぞ力を貸していただきたい」
「それはもとより。だがこれからすぐにといっても…」
「今夜中には当方の忍びが勢揃いするはずです。佐和山城下に巣喰っている徳川方の忍びどもを大掃除しましょう。左近の殿には至急手の者を差し向けて事情を報告しておきます」
銀次は薬が効いてきたのか、眠っているようだ。彼らは島屋敷で味方の忍びが集結してくるのを待った。やがて日も傾き、夕暮れが訪れようとしている頃、大坂へ向かった島左近主従の身にも、孫市の不安通り異変が起こっていたのである。
つづく
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