「庄屋」は左近か

「平群嶋城」に乱入した庄屋は左近本人だったのでしょうか。資料が残されていないため断定は出来ませんが、考えられる一つの仮説を提起してみました。


左近と曾歩々々氏

 ここで今一度、左近清興と曾歩々々氏の関係について少し述べておくことにする。『大和志料』平群郡椿井城の項に

「享保九年郡山領分明細帳筒井諸記所引曰椿井村・・・島左近友保、城池不詳、島左近友之、城跡村中并山々三ヶ所ニ御座候・・・
 和州高付帳同記所引曰平群郡 大将島大和守清澄 同左近清勝 文禄改高 一四百七石八斗六升七合椿井村島大和守 一七十七石八斗三升五合椿村島左近」

 とあり(「考証・茶々逆修」の稿参照)、ご覧の通り後の記録には島大和守清澄・左近清勝といった人物の名が見える。また『和州諸将軍傳』にも左近の初名は「清胤」とあり、それ以前の島氏の記録には「清」の字を持った人物は見あたらない。

椿井墓地に残る仏石「逆修重清」  さらに、天正十一年二月十五日付けの自然石梵字仏石「逆修重清」が平群町椿井の椿井墓地に現存し(=写真)、時期的に見て同年は平群谷における左近清興の全盛期と言って良いことから、「重清」なる人物は島氏の一族である可能性が極めて高い。また「清」の字のみならず、広く知られている左近清興の別称「勝猛」や子の信勝(『和州諸将軍傳』では政勝)、上記清勝・重清に見られる「信」・「勝」・「重」などの字についても、これはかつての曾歩々々氏(平氏)一族に見られる字であることからも、やはり左近清興は同氏と何らかの関係があったと見るのが妥当であり、事実その可能性は高いと言っても差し支えないかと考える。
 余談だが、椿井墓地には同地の地侍と見られる下河原氏代々の墓があるが、石田三成に仕えた後の左近清興の家臣として下河原平太夫なる人物が『武将感状記(砕玉話)』に登場することから、平太夫は平群谷下河原氏の一族である可能性が高い。とすると、左近は単身三成に仕えたというよりも筒井家臣時代の配下を率いて三成に身を投じたことも考えられるため(仕官後に左近を慕って来たことも考えられるが)、今一度左近の三成仕官の形態と時期については調べ直す必要があろう。


「庄屋」は左近か

 さて問題の「庄屋」であるが、今までの情報を整理してみると次のようになる。

※曾歩々々氏は天文期以降記録から途絶え、島氏と一体化した模様である。
※天文十八年九月に「嶋佐近頭内儀」なる女性が亡くなっている。
※永禄十年当時の平群谷は松永久秀の支配下にあった。
※左近清興は、曾歩々々氏と何らかの関係がある。
※「庄屋」は南山城・嶋庄の庄屋と思われる。
※「庄屋」は福生院の甥で永禄九年当時二十五歳である。
※「庄屋」は北方面から上庄城に乱入したものと推測される。
※「庄屋」乱入事件については島氏一族の内紛と見られる。

 これらを考慮の上で、以下は曾歩々々清繁が左近の父として仮に筋書きを立ててみた話であることを初めにお断りさせていただく。

 天文年間後半、木沢長政の侵入などの戦乱により弱体化していた曾歩々々氏は、清繁の代で島氏と姻戚関係を結んだ。というより島氏に飲み込まれたものと思われる。おそらく清繁の妻の死去(天文十八年)の後、島氏の娘に婿入りする形でその勢力下に属したのであろう。この背景には平野殿庄が東寺領庄園であったことから、島氏を与党とする筒井氏および勢力拡大を目論む興福寺一乗院の企図が絡んでいた可能性も十分考えられる。左近清興は父清繁が島氏と一体化した時点で既に誕生していたが、この時筒井順昭のもとに送られた。これは一種の人質的な意味合いがあったのかもしれない。そして左近の兄弟の一人が山城嶋庄へ入り、後に庄屋となったのではないかと見られる。

 左近は長じて曾歩々々一族の通字「清」より「清興」を名乗り、「島左近清興」として筒井順昭のもとで戦力として働く。しかし永禄二年以来、松永久秀の侵攻を支えきれず劣勢であった筒井氏の援護が頼めない平群谷の島氏は、久秀の前になす術なく屈して平群谷は松永方の支配下に置かれた。久秀は信貴山城の東の玄関口にあたる西宮城には配下の臣を置いて守らせ、左近の父豊前守(清繁)は上庄城に配された。さて山城嶋庄の庄屋(左近の弟ということになる)は父の不甲斐なさに怒り、上庄城に乱入して「継母」すなわち島氏本家の義母はじめ一族を殺害した。父豊前守はかろうじて単身逃れ松永方へ奔ったものと見られるが、その後の消息は不明である。やがて元亀二年、久秀は辰市の戦いで筒井勢に敗れ信貴山城に退却を余儀なくされるが、上庄城に居座っていた島氏(元は曾歩々々氏)一族には報復した。これが天正初年の金勝寺焼き討ち(寺伝)であろう。金勝寺はかつて曾歩々々氏の領内であり、同氏とは非常に関係の深い寺だったからである。以後の庄屋の消息は不明で、嶋庄に戻ったかもしれないし、あるいは久秀に殺されたのかもしれないが、そこまではわからない。そして後に久秀が信貴山城に滅び筒井氏が復活した際、左近は改めて筒井家臣として島氏の惣領を継ぐこととなった・・・。

 ざっとこのような筋書きが一例として考えられようか。ところで上記では左近が庄屋と同一人物とは見ていないが、これには理由がある。「略歴」の稿で述べた通り、左近の妻「御ちゃちゃ」は興福寺に属す医者北庵法印の娘であり、北庵が多聞院英俊と非常に仲の良いことは後の『多聞院日記』の記録からも明らかである。ところが英俊は上の記録で庄屋の行為に対して「三ヶ大犯言悟道断曲事越常篇、中〃無是非次第也、追日凶事浅猿〃〃」と明らかに怒りかつ嘆いており、後の左近や「御ちゃちゃ」関連の記述を考えると、とても左近がこの庄屋と同一人物とは思えないのである。
 ただ北庵法印はこの頃まったく記録に現れず、左近が英俊の記録に「嶋衆」として初登場するのはずっと後の天正九年九月八日条であることから、この点にはあまりこだわる必要はないのかもしれない。また信憑性に問題は残るが『和州諸将軍傳』等では左近は天文九(1540)年生まれとされており、これを考慮すると永禄九年当時は二十七歳ということになる。とすると前述の「福生院の甥」なる人物(二十五歳)とは年齢が合わないため、上記のように考えてみた次第である。

 以上のことから、私見だが永禄九年・十年の記録に見られる「庄屋」は左近ではないと見たい。もちろん左近本人と見ても筋書は立てられるのだが、何分資料が残っていないため、こう考える方が自然ではなかろうかという程度以上には強く述べられないのである。『和州諸将軍傳』は宝永四(1707)年に刊行された所謂「軍記物」で、確かに史実的には良質の史料とは言えない。また内容が『増補筒井家記』と酷似しているため(注2)、一度両書の内容および成立関係等を詳しく調査する必要があると思われるが、これは別の機会に譲る。しかし左近の生年月日まで記した以上は何らかの伝承や、著者としてそれなりの根拠があったはずである。他の在地史料が新たに見出されるまでは、部分的に同書を参照せざるを得ないのも、現時点ではある程度やむを得ないことと考える。
【注2】今回の調査では『増補筒井家記』は(財)柳沢文庫保存会蔵の写本を閲覧させていただいた。

 それだけ左近には確かな記録が残っていないのである。


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