筒井順慶の死

松永久秀の滅亡後はしばらく平穏な平群谷でしたが、本能寺の変により信長が横死して再び時代の激流に巻き込まれます。筒井順慶は何とか時流に乗り難局を切り抜けますが、天正十二年に三十六歳の若さで世を去ります。


東奔西走の日々

 松永久秀の滅亡後、筒井順慶は東奔西走の日々を送る。天正六年四月二十七日、順慶は信長の命により秀吉の上月城攻めの援軍として出陣した(『多聞院日記』)。順慶は滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・武藤舜秀らの総勢二万の兵で播州高倉山へ向かっているが、その中に飯田三郎次郎・井戸十郎大夫・片岡弥太郎・楢原右衛門・清須美右兵衛・森志摩守らとともに「島左近勝猛」の名も見える(旧参謀本部編『日本戦史』)。しかし左近が戦闘に参加した記録は見られず、同年七月三日に籠城していた尼子勝久が自刃、上月城は毛利勢によって落城した。『多聞院日記』天正六年八月二十二日条に「筒井順慶幡州ヨリ丹波へ越、今日歸国了」とあることから、左近もこれに同行して大和へ戻ったものと思われる。

 この時期の順慶は出陣に次ぐ出陣で、まさに息つく暇もない忙しさであった。『多聞院日記』で見る限りでも、その後の順慶は

 「筒順安土へ越了」(天正六年八月二十四日条)
 「此間筒順十市城迄出陳也、戒重大佛供不随故也ト云々」(同年十月七日条)
 「吉野郷へ筒井人數出、方〃燒之云々」(同年十月九日条)
 「筒井順慶吉野郷手遣、上市・下市・ヰヽカヰ以下悉燒佛、(後略)(同年十月廿八日条)
 「昨曉攝州アリ岡本(外カ)城へ入損、(中略)當國衆ヘ手違無殊儀尤〃」(同年十二月十日条)

摂津有岡城跡 といった行動をしている。左近がこれらすべてに同行したかどうかは定かではないが、この後天正七年十月二十二日に春日社へ送付した書状に関する記録があり、内容は略すがこの時期左近が平群谷に在地していたことを示すものである(『春日文書(日)第六十』)
 写真は上の記録に見られる摂津有岡(伊丹)城跡で、天正六年十二月当時は信長配下の荒木村重が背いて籠城していたことから、順慶も信長から出陣を命じられたものである。余談だが、この時城中には当時播磨小寺氏の臣であった黒田官兵衛孝高が劣悪な環境下の土牢に監禁されており、後に救出されるがそれ以後足が不自由になったという話は有名である。
 そして天正八年八月、信長は郡山城を除く大和の諸城を破却するよう命じた。ここに筒井城はじめ先述の西宮城・椿井城も取り壊されることとなったのである。

 順慶は翌天正九年六月、以前から不和であった葛上郡(現御所市)の国人吐田氏を郡山城で謀殺したが(同日記天正九年六月三日条)、同氏の所領千石は後に左近に与えられたようである。これは後の天正二十年七月六日条に

(中略) 抑栄順ヽクルヰノ由来ハ、舎兄吐田殿於郡山順慶ヨリ生害了、家可持仁栄順房ナラテハ無之間、還俗スヘキ必定ノ處、吐田ノ跡闕所、嶋ノ左近ヘ分遣了間無知行(後略)

と見え、また『奈良県南葛城郡誌』には吐田家の滅亡とともに「筒井家の長臣嶋左近、吐田に入て豊田村に館を構へここに在住して近辺を横領す」との記録がある。『御所市史』でも「吐田氏の跡へは筒井氏から嶋左近清興が派遣されて入部してくる」とされており、実際左近本人が移り住んだかどうかは明らかではないが、一族を派遣した可能性は十分考えられる。

 左近はこの年(天正九年)の九月、信長の伊賀攻め、いわゆる「天正伊賀の乱」に筒井順慶とともに出陣した模様で、『多聞院日記』同年九月三日条に

「從信長被仰付、伊賀ヘ出勢、甲賀口はホリ久太郎殿大将にて (中略) 西ヨリハ和州ノ衆、則筒順一手ニ自身ハ畑口へ、 (後略)

とあり、また九月八日条には

(前略) 一昨日六日伊賀ニテ合戰、嶋衆少〃損了、十常見事沙汰云〃 (後略)

と見えることから、左近自身が負傷したかどうかはわからないが、手勢を少々失ったようである。なお「十常」とは先述した十市常陸介のことで、以前の経緯を考えると常陸介は左近の指揮下で戦闘に加わっていた可能性がある。


本能寺の変と「洞ヶ峠」

 ようやく大和も筒井順慶の支配下に収束するかと思われた天正十年六月二日早暁、戦国の革命児織田信長は明智光秀の謀反により京都本能寺にその生を終えた。事件の背景や経緯については今もって謎が多いが、ここでは略す。もちろん大和にも午前中に事件の報は伝わったが、困ったのは順慶である。彼はこの日の朝京都へ向かっていたが、信長が急に西国へ出陣と決まり安土へ戻ったとのことで、途中から郡山へ引き返してきたところで事件を知った。光秀と懇意にしていた順慶は苦悩するが、結果的には光秀の加担要請には応じなかった。
 順慶は左近ら重臣を集めて善後策を協議したと思われるが、籠城も考えたのか九日には急遽郡山城に塩や米を運び込ませている。さらに十日には光秀からの使者藤田伝五が駆けつけ、順慶は加担しないと見た伝五は木津まで帰っていくのだが、順慶は再び彼を呼び戻しているのである。呼び戻した伝五と何を話し合ったのかはわからないが、順慶の苦衷と不安な心中がよく表れている記録である。

 この時光秀は河内と山城の国境・洞ヶ峠(現京都府八幡市)にいて、順慶加担の報せを待っていた。つまり、巷説に日和見の代名詞として伝えられる順慶の「洞ヶ峠」は事実ではなく、実際そこにいたのは光秀なのである。光秀としては順慶はもちろん、細川藤孝・忠興父子も娘の玉(細川ガラシャ)が忠興の妻ということもあり、自分に加担してくれるはずと期待していたようである。しかし現実は期待を裏切るもので、結局光秀は六月十三日に山崎で羽柴秀吉勢と戦って敗れ、あっけなくその「夢」は潰えた。
 このため光秀に加担して槇島城を守っていた井戸若狭(良弘)が順慶方に城を明け渡すとのことで、六月十四日の早朝に井戸・越智・楢原・万歳氏らの軍勢が山城へと向かった。順慶自身も翌十五日に千余の兵を率いて出陣し醍醐へ着陣するが、ここで秀吉から叱責を受ける。『多聞院日記』に以下のようにある。

「一 順慶今朝自身千計ニテ立了、昨今立人數六七千可在之ト云〃、今夕醍醐陳取ト申、餘ニ被見合筑州ヨリ曲事ト申云〃(後略)(六月十五日条)

 「餘ニ被見合」、つまり秀吉にしてみれば順慶の判断(秀吉方加担)が余りにも遅く、「曲事」すなわち「けしからん」ということである。洞ヶ峠には出陣していないのだが、ある意味で順慶がいわゆる「日和見」をしていたことは事実であろう。『和州諸将軍伝』によると、山崎合戦において筒井勢が明智方斎藤勢と激戦となり、光秀の重臣斎藤利三の弟・大八郎利次は順慶と刺し違えようと単身紛れ込んで近づいた。これを見破ったのが順慶の傍らに控えていた左近で、大八郎と半刻の激闘の末に自身も三ヶ所に傷を負いながらこれを討ち取ったとされる。「友之ナカリセバ順慶ノ命危カルベキ處ナリ」とまで書かれているのだが、残念ながらもちろん史実ではない。


筒井順慶の死

 信長の死後、織田家の家督相続を巡って秀吉と柴田勝家の間に対立が深まり、やがて両者は北近江賤ヶ岳一帯で対峙する。秀吉から叱責を受けながらも何とか大和一国を安堵された順慶は、天正十一年三月以降、秀吉に従い伊勢方面(対滝川一益)と近江(対柴田勝家)に向け出兵するが、一旦四月三日に帰国した。同月二十五日に再び近江へと出陣するが、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れて居城越前北ノ庄城に籠もった柴田勝家はこの前日に同城で自刃しており、順慶は五月六日に帰国している。しかし一息つく暇もなく翌日早朝、今度は滝川一益勢との戦いに向け伊賀へと出陣した。
 これについては『多聞院日記』同年五月十日条に以下の記録が見られるが、どうやら左近は伊賀において滝川勢から夜討ちを掛けられて負傷したようである。

「一 今暁伊賀筒井陳ヘ夜討アリ、散〃ニ手負數多、井戸堂郎(脱アルカ)・豊田・白土・楊本・岸田・菅田・嶋左近・松蔵弥八郎、同弥二郎・中村九郎三郎以下悉手負了、内衆討死手負數不知、道具悉取散了、乍去本陳無殊儀故不崩踏留了、一圓油断故云〃、大事〃〃、疵衆多〃、スカタハ既死歟云〃、萩別所モ死歟、但不苦トモ云〃」

 秀吉と対立した柴田勝家は滅び、勝家に加担していた織田信孝も兄信雄に尾張知多郡へと追われ、五月二日に内海の野間大御堂寺で自刃した。しかしやがて信雄は秀吉と対立、家康に助けを求めたことから翌十二年三月〜四月に小牧・長久手の役が起こる。局地戦とは言え長久手で家康に敗れ池田恒興・森長可らを失った秀吉は、美濃の小城などを攻めながら一旦大坂へ戻り、同年十一月十一日には信雄と和睦して家康との決戦は回避する。このあたりは秀吉一流の外交で引き続いて家康とも和睦交渉を進め、十二月十二日には家康二男の於義丸(後の結城秀康)を秀吉の養子とすることで和睦を結んでいる。

順慶の二つの墓  しかしこの間、筒井家では一大事が起こった。七月に胃病が悪化した順慶が回復を見ることなく、そのまま八月十一日に息を引き取ったのである。『多聞院日記』には「爲順慶祈祷」の文字が至る所に見られ、寺社では病状回復を願った祈祷が繰り返し行われていたことがわかる。死因は胃潰瘍(『和州諸将軍伝』では「胃かん痛」【注1】とする)といわれ、順慶には実子がなかったため、養子の定次(小泉四郎、慈明寺順国の子)がその跡を継いだ。相続については元々順慶は筒井家の名跡は番条五郎に嗣がせたかったようで、これには秀吉も同意していたが、五郎にその気は全くなかったという(『多聞院日記』同年八月十三日条)
 順慶の亡骸は密かに南都 圓證寺 (現在は生駒市上町に移転)に葬られ、その喪は秘された。事実順慶の歿した翌日には秀吉から尾張への出陣要請が来ており、名代として定次が出陣している。ようやく葬儀が執り行われたのは十月十六日のことで、その際に左近は井戸良弘らと幡持ちを務めていることが記録に見られる。また葬儀の後、順慶の亡骸は長安寺(現存しない)に改葬された。
 写真左は大和郡山市長安寺町の筒井順慶歴史公園にある順慶廟(五輪塔覆堂・中に五輪塔がある)、右は高野山奥の院にある順慶の五輪塔である。
【注1】「かん」の字は「月へん」に「完」。

 筒井陽舜房順慶、天正十二年八月十一日郡山城に歿す。享年三十六歳。


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