筒井家を去る

筒井家は無事に定次が相続しますが、翌天正十三年閏八月、突如として秀吉より筒井家の伊賀移封が言い渡されます。左近もこれにより伊賀へ赴きますが、やがて筒井家を去ります。


定次の伊賀移封

 筒井家の家督相続が無事に済み、新しい当主となった定次は秀吉の命により紀州征伐に出陣する。これが天正十三(1585)年三月のことで、その際に左近が根来の荒法師を討ち取った(討ったのは子の新吉とも)とする話が残されている(「島左近関連逸話集1・島左近、根来的一坊を討ち取る」参照)。秀吉勢は紀州を平定すると、その勢いで今度は四国へ兵を進めた。迎え撃った四国の雄・長宗我部元親もさすがに秀吉勢には歯が立たず七月二十五日に降伏、土佐一国は安堵されるがその所領は大きく減じられてしまった。
 引き続き秀吉は、八月初めには金森長近父子を飛騨に向かわせて三木(姉小路)氏を討ち、自身は猛将佐々成政の待ち受ける越中へと向かうと、成政は抗戦を断念し剃髪して降伏した。まさに破竹の快進撃を続ける秀吉であったが、翌閏八月十八日、筒井家にとっては青天の霹靂とも言うべき事態が起こった。定次が伊賀への移封を命ぜられたのである。

 これについて、『多聞院日記』には以下のように記録されている。

(前略) 今暁筒四郎坂本ヘ越了、當國守護相替之由一定〃〃ト云〃、扨〃如何可成行哉、」(閏八月十八日条)
「十九日、今朝筒井四郎被歸了、伊賀ヘ被仰付了、當國ハ美濃守殿御扶持云〃、今日鷹鳥城渡之云〃、郡山右往左往也、先以寺門・奈良中ハ不可有殊儀云〃、安堵了、但難測事也 (後略)(閏八月十九日条)

現在の伊賀上野城  記録に見えるように筒井四郎定次は伊賀へ移され、大和は「美濃守殿」すなわち秀吉の弟・羽柴秀長の所領となった。大坂城を中心とする秀吉政権の支配基盤を固める上で、大和は東に位置する要衝であることから信の置ける一族を置く必要があり、加えて興福寺などの寺社勢力と筒井氏の切り離しを意図したものであろう。この後、同日記閏八月二十五日条に多武峯寺衆徒から武器甲冑などを没収した記述が見られることから、秀吉は例外なく大和の寺社から武力を奪ったものと思われる。つまり後に大々的に行われる「刀狩」は、この時点で大和において行われていたわけである。
 写真は現在の伊賀上野城で、天正十三年に定次が三層の天守閣を築き、筒井家改易後の慶長十六年には伊予今治から移ってきた藤堂高虎が天守を五層として大改修に着手した。しかし完成目前の翌年九月二日に暴風により倒壊、以後天守閣不在のまま津藩藤堂家の城代屋敷として受け継がれていくという歴史を持った城である。

 これにより大和国人衆は留まって秀長の麾下に属すものと定次に従って伊賀へ移るものに分かれ、左近は松蔵右近らとともに伊賀へと赴いた。


伊賀における左近

現在の木興町一帯  左近の伊賀における具体的な事績はほとんど伝わっておらず、伊賀を去ったことのみ上記『伊乱記』や『新編伊賀地誌』、『和州諸将軍傳』などに記されているに留まる。『和州諸将軍傳』では定次の伊賀移封が天正十三年二月とされており、三月に起きたとされる「獺瀬(おそせ)一揆」の際に左近特に子の新吉の活躍が描かれている。しかし同書における定次の伊賀移封日時は明らかに誤りであり、この戦いが実在した事を示す他の資料は見あたらず、天正十一年の伊賀における戦いの誤伝と思われるためここでは触れない。
 『参考伊乱記』や『校正伊乱記』によると、左近は伊賀において上野城下の南西に隣接する木興(きこ)(現上野市木興町=写真)に二千石の所領を有していたとあるが、これとは別に少々気になる記述が見られる。『参考伊乱記』の「定次賜羽柴姓為伊陽守」の項に

(前略) 順慶逝去ののち秀吉公命じて順慶の家従三人を選て伊陽の州裏三所を領し定次を輔らる。右三人ハ松倉豊後名張簗瀬にして八千石を拝す。岸田伯耆阿保町にて三千石を拝し、箸尾半三郎平田に於て一千石を拝して定次の麾下として政事を輔佐す。(後略)(句読点は後補)

とあり、『校正伊乱記』にも同内容の記述があるが、これは少々疑問である。平群谷で一万五千石格の武将とされる左近は伊賀へ赴くが、定次を補佐したのは松蔵(倉)・岸田・箸尾の「家従」三人といい、しかもそれは秀吉の命によるという。加えて岸田伯耆は『和州国民郷士記』によると左近の配下とされている人物である。また伊賀側の資料に左近の名が見られないのならともかく、左近は実際伊賀に存在し、中坊飛騨と水論を起こして筒井家を去ったとされているのである。では左近はどういう立場で伊賀へ赴いたのであろうか。元々この時期の左近の動きや事績ははっきりしておらず、そのため左近の伊賀行き自体を疑問視する説もある。
 『畠山家譜目録』によると、伊賀へ行ったのは子の新吉で、左近は吐田氏の闕所豊田村(現奈良県御所市)に住んでいたとあるが、これも考えられないことはない。左近本人が豊田村にいたかどうかは判らないが、旧吐田氏領が左近に与えられたのは事実だからである。この点については左近が石田三成に仕えた時期や形態の謎とともに、別稿で少し考えてみたい。

 定次は先に秀吉より羽柴姓を許され「伊賀侍従」と呼ばれていた。筒井順慶は大和四十四万石余の国主として存在したが、これは麾下の国人衆の所領を合わせたものであり、筒井家の直轄する所領は約十八万石とされる。しかもこの十八万石というのも、元々筒井家自体は六万石だったのが天正五年の松永久秀滅亡後にその所領十万石を加え、さらに天正十一年の柴田勝家滅亡後に秀吉から河内で二万石を拝領したことによるものなのである。伊賀領は二十万石とされていることから筒井家自体としては加増転封であるわけだが、思うに順慶の代に麾下となった国人衆を順慶の没後一旦全て秀吉または秀長の直臣とし、筒井家は単なる一大名として位置づけられたものであろう。別の見方をすれば、筒井家は順慶が没した時点で「大和四十四万石の国主」から「大和郡山十八万石の一大名」に「格下げ」されたとも言える。そして秀吉は筒井家の内政にも干渉し、定次を伊賀へ移すとともに改めて自己の命により松蔵・岸田・箸尾の三人を補佐の臣として付けたわけである。

 左近も例に漏れなかった。私見ではあるが、筒井家が秀吉の麾下に入った際に左近は他の大和国人衆と同列に扱われ、順慶生存中は従来通りであったが、その没後は秀吉(または秀長)の直臣として扱われたと見たい。伊賀へ赴いたのは定次の補佐ではなく、一種の目付つまり監視役としてではないかと思われる。その際、左近の平群谷の本領は残った。後の記録に「島大和守清澄」「島左近」なる人物の名が同地に見られる(『大和志料』)のは、島氏一族が引き続き平群谷に在住していたことを示すものであろう。つまり伊賀における二千石の所領は、加増として秀吉から与えられたものであった可能性がある。


筒井家を去る

左近が井手を築いたと思われる地点  左近が伊賀を去った際の理由としては二説伝えられており、一つは『伊乱記』など伊賀側の資料に見られるもので、左近の所領と隣接する中坊飛騨守と水論を起こした際に、その依怙贔屓の沙汰に怒って定次を見限ったとするもの(「島左近関連逸話集1・左近、筒井家を去る(1)」参照)、もう一つは『和州諸将軍傳』などにあるもので、左近は定次の取り巻きである桃谷・松浦・河村らと合わず、度々諫言するが色欲に溺れて非政を省みない定次に嫌気がさして見限ったとするもの(「同・左近、筒井家を去る(2)」参照)である。
 写真は左近が新たに井手を築き中坊氏との水論の発端となった井手の位置を、『参考伊乱記』に見られる記述をもとに推定してみた地点である。中坊氏との水論の真偽はともかく左に水門が見えることから、ひょっとするとこれは左近の築いた井手の名残なのかもしれない。
 『和州諸将軍傳』によると、左近の伊賀退去は天正十六年二月七日のこととされ、南都興福寺の塔頭・持寶院に遊居したという。しかし伊賀側の資料では『伊乱記』では慶長元年、『新編伊賀地誌』では「天正年間」とその時期が一致せず、さらに退去後には直接石田三成のもとへ赴いたとされているようである。ただ上野市西蓮寺の過去帳に

「慶長十一年六月三日 清閑童子 上ノ城ノ嶋ノ太郎左衛門殿子息」

など、島氏一族関連の名が見えることから、左近の伊賀退去後も一族の一部は伊賀上野に残ったと見てよいかと思われる。また『三國地誌』阿拜郡の項に「嶋氏宅址 並小杉村」という記録も見られるので(小杉村は現伊賀町小杉)、参考までに掲げておくことにする。

 持寶院が島氏と代々関わりの深い寺であることは先述の通り事実であり、その点『和州諸将軍傳』の記述は一見信用できるかに思える。しかし、同書では左近が伊賀を去る前年に松蔵重政・重宗兄弟が伊賀名張を去って南都成身院に遊居したため、桃谷國仲を名張城代としたとされているが、これが少々眉唾なのである。桃谷國仲なる人物自体その存在が疑問である上に、『多聞院日記』に以下の記述がある。

(前略) 伊賀ヨリ藤松來、松蔵右近ノ内金七郎ニ奉公ト申、」(天正十七年正月十六日条)
「一 藤松伊賀ヘ歸ル間、又六ヘヘウタンニ酒今一升遣了、」(同正月廿日条)

 これは松蔵家の下僕と思われる「藤松」なる人物に関する記述だが、ご覧の通り重政か父の勝重(重信)かは別として、「松蔵右近」なる人物が天正十七年正月の時点でまだ伊賀に存在しているようなのである【注1】。加えて『和州諸将軍傳』では松蔵右近勝重は天正十四年三月七日に伊賀名張において没した(享年六十五歳)とされるが、『寛政重修諸家譜』によると右近重信の没年は文禄二年七月七日(享年五十六歳)とされている。
 これを信じると松蔵氏は少なくとも文禄二年までは伊賀にいたと考えるのが自然で、『和州諸将軍傳』における松蔵重政・重宗兄弟の退去日時は誤りである公算が大きい。つまり同書の一連の記録として見られる左近の伊賀退去時期や理由についても、うかつに信用するわけにはいかないことになる。
【注1】この後同年六月六日条にも場所は不明だが右近が病気である旨の記述がある。

 現時点では退去時の状況は不明としか言えないが、ともかく左近は伊賀の地を去った。
(以下次回「石田三成のもとへ」(仮称)に続く)


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