杭瀬川の戦い

頼みの岐阜城も一日で落ち、劣勢の状況を打破すべく島左近は赤坂襲撃を提案しますが、実行はされませんでした。そこへ東軍の総大将家康が着陣し西軍の動揺はさらに広がりますが、左近の計略によりやっと一矢を報います。


左近、赤坂襲撃を献策

 こうして八月二十三日、西軍は岐阜城を失い、また河渡川でも敗れた。この後の様子を『関原軍記大成』は以下のように伝えている。

 西軍方の長松城主武光式部は一連の敗報に接すと、城を抜け出た上に大垣城を避けて桑名へと向かい、氏家内膳を頼んで籠城したという。そして勝ちに乗じた東軍は続々と西美濃の地へ入り、大垣城の北西約一里の地にある赤坂の岡山へ集結、布陣した。この状況を見て、左近は三成にこう言った。
「味方がこのように崩れてしまっては、いざひと合戦とも参りませぬ。私が地形を考慮して備えを立て、敵を追い返してご覧に入れましょう。味方が馳せ集まるように御下知下さい」
 左近は街道筋から大垣への岐路に流れる小川を前にした、一段高いところへ陣を据えた。左近の立てた旗を見た兵は続々と集まり、その数は千人を超えたという。
 三成は家臣の阿閉孫九郎を遣わし、敵情を探らせた。左近は孫九郎に「関東勢は大垣へは寄らず、直接赤坂へ向かうと見える。街道筋の民家は焼いたが、赤坂の町には火を放っていない。きっと赤坂に宿陣するに相違なく、これは我が方の勝利の前兆である。貴殿は急ぎ戻って三成公に伝えよ。私もすぐに向かい、一策をお伝えしよう」
 左近は程なく本陣に行き、三成にこう言った。

「敵兵はいよいよ赤坂に集結して陣を張ると思われます。今なら昨日来からの疲れで、将も士卒も物の役には立ちますまい。今夜押し掛けて赤坂の町に火を放ち敵を焼き討ちすれば、手間は掛かりません。どうか夜襲のご決断を」

 三成は左近の策に表向きは賛同し、島津・小西・福原らに諮った。だが彼らは「味方の兵士の精力が尽きており、命令も行き届かない。一両日待って戦うべし」と賛同せず、結局夜襲は決行されなかった。

 東軍は続々と赤坂に集結した。対する西軍も九月三日には宇喜多秀家が大垣城に合流、また大谷吉継が山中村に着陣し、七日には伊勢安濃津城などを落とした毛利・長宗我部勢が南宮山に布陣するなど、西美濃一帯は俄然緊迫の度を増してきた。

 さて家康はというと、八月二十八日に江戸にいた家康のもとに河渡川の戦いの捷報が届き、頃はよしと九月一日に出陣することが決まった。家康は弟の松平康元・五男の武田信吉らを江戸城の留守に残し、同日三万二千七百余の兵を率いて江戸を出陣した。家康本隊はこの後、神奈川・藤沢・小田原・三島・清見寺・島田・中泉・白須賀・岡崎・熱田と泊を重ね、十一日に清洲城に到着した。
 さらに十三日には岐阜城へ入り、その日の夜のうちに馬印・旗・幟と銃隊・使番などを密かに赤坂へ向かわせ、自身は翌十四日夜明け前に岐阜を出陣、稲葉貞通・加藤貞泰らの案内で長良川を越え、神戸・池尻を経て正午前に赤坂に着陣した。


杭瀬川の戦い

 九月十四日正午頃、西軍の斥候が大垣城へ駆け戻ってきた。東軍の赤坂本陣のそこかしこに白旗が翻って俄に活気を呈し、幟の数なども一気に増えたので、家康が着陣したのではないかという報である。これを聞いた西軍方の兵は少なからず動揺し、浮き足だった様相を呈し始めた。そこで三成の家老島左近や蒲生備中らは「家康は上杉景勝と戦っているはずなので、こんなに早く着陣する事はあり得ない。白旗は金森法印(長近)のものである」と触れ、兵たちの動揺を鎮めようとした。しかし三成は宇喜多秀家・小西行長とはかり、改めて偵察をさせたところ、家康の持筒頭・渡辺半蔵の姿を認めたことから家康の着陣は事実であると報告されたので、兵たちは一層動揺の色を濃くしていった。
 左近はこれ以上動揺が広がるとまずいと考え、「もはやこの動揺を鎮めるには、まず一戦におよんでこちらの戦力を示す他ありますまい。敵を誘い出して攻め、状況を打診してみてもよいのでは」と三成に献策、了承を得た。そこで左近は蒲生らとともに五百の兵を率いて大垣城を出陣、宇喜多秀家は明石全登・本多但馬らに八百の兵を与えて後陣に備えさせた。

杭瀬川  左近は一隊を笠木村付近の草むらに隠しておき、自身は池尻口から杭瀬川を渡り、東軍の中村一栄隊の前で刈田をして敵を誘った。なお、中村隊は本来は駿河府中城主の式部少輔一氏が出陣するところだったが、七月十七日に病没したため、代わって弟の一栄が指揮をとり参陣していた。
 左の写真は杭瀬川の左近が渡ったのではないかと思われる場所(推定)で、対岸から少し行ったところに中村隊、その左手(南側)に有馬玄蕃頭豊氏隊が布陣していた。中央遠方に小高く見える丘が家康の本陣岡山(現勝山)である。

 さて、陣前で刈田をされた中村隊は面白かろう筈もなく、「人もなげな振る舞い」とばかりに柵から一人の兵が飛び出して左近方の三人の兵を撃ち殺した。これに応戦して左近方もこの中村兵を射殺すると、柵内から中村一栄の家老・野一色頼母(たのも)助義が薮内匠とともに出撃してきた。左近は暫く応戦し、頼母らの猛攻撃を支えきれずと見せて川を渡り退却する。むろん、計略である。そして頼母らは勢いに乗じて川を渡って追撃してきた。
 ここで伏兵が草むらから現れて中村勢の退路を断ち、さらに敗走と見せかけた兵も急に反転して挟撃、乱戦となった。そして野一色頼母は乱戦中に戦死してしまう。中村隊の苦戦を見た有馬豊氏は、急ぎ救援に向かうべく柵を越えて出陣、迎え撃った左近・蒲生勢と激戦を展開した。乱戦の中、有馬隊の稲次右近は蒲生の士横山監物を討ち取るなど力戦するが、そのとき迂回してきた明石全登隊から集中射撃を浴びせられ、これまた苦戦に陥ってしまう。この一部始終を岡山から望見していた家康は、優勢だった初めのうち(左近の計略だが)は褒め称えるなど上機嫌であったが、左近の計略に見事にはめられたことを知ると機嫌を損じ、「大事の前に、かかる小戦をなし、兵を損じるとは何事ぞ」と怒り、井伊直政・本多忠勝に命じて兵を撤収させた。

 目的を果たした左近は、強いて深追いはせずに軍を撤収させた。西軍方の殿軍は三成の士・林半助と宇喜多の士・稲葉助之允が見事に務め、これを見ていた家康は「敵ながら天晴れ見事な働きぶり」と称賛したという。小戦ながらも西軍方はやっと一矢を報い、一時的ではあったが大いに士気を高めた。しかし、まさか翌日の夕刻には西軍が雲散霧消してしまうなどとは、誰も予想してはいなかったにちがいない。


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