決戦・関ヶ原

九月十四日夜、降りしきる雨の中を三成ら西軍は関ヶ原に移動し、それを知った家康はすぐさま後を追います。一夜明けて立ちこめた霧が晴れた美濃関ヶ原は、両軍の兵士で埋め尽くされていました。


関ヶ原パノラマ展望図
関ヶ原パノラマビュー(松尾山頂から撮影)

西軍、布陣完了

 関ヶ原合戦が行われたのは、現在の岐阜県不破郡関ヶ原町一帯である。北西には近江との国境に標高1377mの伊吹山があり、その山脈は関ヶ原一帯の北を、東へ順に相川山・額堂山・金生山と続く。また関ヶ原の西には標高308mの城山と、その東麓に小西行長・宇喜多秀家がそれぞれ布陣した天満山の北・南峯があり、南には小早川秀秋の陣した標高293mの松尾山がある。南東には標高419mの南宮山があり、ここには毛利勢が陣を敷いた。そして南宮山頂から北西へ2km下ったところに家康が最初に陣を置いた桃配山がある。つまり、戦場となった関ヶ原一帯は、これらの山々に囲まれた、東西約4km・南北約2kmほどの盆地である。
 関ヶ原中心部では東西を結ぶ中山道(当時は東山道)から北西へ通じる北国街道(越前街道または中筋ともいう)、南東へ通じる伊勢街道(牧田街道)がそれぞれ延びており、中山道は現在の国道21号線、北国・伊勢街道は国道365号線となっている。

 九月十四日夜に大垣城を出陣した西軍は、石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家の順で関ヶ原へと向かった。当時風雨が激しかった上に松明をも使わず、ただ栗原山に見える篝火(長宗我部陣のものか)を目標として行軍したという。軍勢は野口・牧田の村落を経て山中村(関ヶ原西部)に到着したが、三成は途中栗原山麓の長束正家と松尾山小早川秀秋の陣所に立ち寄っている。なお、この時四番手宇喜多隊の最後尾が、東軍先鋒福島正則隊の一部と接触するという出来事があり、若干の損害を出したとする記録もあるが、大きな戦闘には至らなかったという。
 さて、西軍は一旦大谷吉継陣所付近の山中村(現在のR21藤下バス停の北一帯)へと集結した。これは吉継が西軍全体の参謀格であることを示していると思われ、ここで偵察を出して東軍の進軍状況を確認しながら軍議を開き、それぞれの持ち場(陣地)を決定した。すなわち、笹尾山に三成、小池村に島津、北天満山に小西、南天満山に宇喜多と決まり、三成・島津は天満山の裏手から北上して藤川を渡り(当時は樵道があった)、それぞれの陣地へと向かったのである。

笹尾山三成本陣より決戦地を望む  すなわち、三成は小関村笹尾山に本陣を据え、その二町東(約220m・ここは小池村に入る)に二重の柵を設け、そこに島左近と蒲生備中らを配した。そして三成本陣の北西山麓には織田信高と大坂弓銃隊(黄母衣衆)が陣したと記録にあるが、当時北国街道より北は一面の原野だったため、その詳しい場所は判っていない。写真は現在の笹尾山から見た決戦地一帯で、さほど高い山ではないが軍の指揮には適した場所である。
 次に島津義弘は小池村神田に本陣を据え、一町半(約160m)程せり出して甥の豊久と山田有栄が布陣、義弘本陣脇には阿多盛淳が並ぶ。また小西行長は島津陣西側裏手の天満山北峯(北天満山)へ、宇喜多秀家は天満山南峯(南天満山)へそれぞれ布陣した。大谷吉継は藤下村藤川台に戸田重政・平塚為広らと中山道を押さえる形で布陣したが、吉継は小早川秀秋の挙動に強い不信を抱いており、これは松尾山の小早川勢に対するものであったと思われる。
 大谷陣から中山道を挟んで東南松尾山方向の藤下村平野(平山)には吉継指揮下の脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保が一列に並んで布陣する。後に彼らは小早川秀秋の寝返りとともに一斉に大谷勢へ襲いかかることになるのだが、この時点で吉継はそんなことは夢にも思わなかったことであろう。


東軍、布陣完了

 一方、東軍勢は同夜西軍が大垣城を出たという情報を得ると、すぐに出陣の準備を行った。一番隊の先鋒は福島正則で、午前二時頃赤坂を出陣した。そして関ヶ原の西寄り・中山道南側の松尾村大関「関ノ明神ノ森」を背に、宇喜多秀家の南天満山に対する形で布陣する。続いて加藤嘉明・筒井定次・田中吉政は順次中山道の北に、さらに藤堂高虎・京極高知は中山道の南・柴井(現関ヶ原中学校付近)にて小早川・大谷勢に対する形で布陣した。これらは東軍の左翼勢である。
 二番隊(右翼勢)は黒田長政・加藤貞泰・竹中重門・細川忠興・稲葉貞通・寺沢広高・一柳直盛・戸川達安・浮田直盛らで、黒田・加藤・竹中は岡山(丸山)の麓に布陣して石田隊に対峙、他は中山道の北・中筋(中央部)に南北に並び、島津・小西隊と向き合う形となった。
 三番隊(中央勢)は井伊直政・松平忠吉・本多忠勝および寄合衆と呼ばれる混成隊によって形成され、本多忠勝は十九女池(つづらいけ)の西、伊勢街道東側に桑山直晴兄弟・山名禅高・平野長泰らを従えて布陣、南宮山方面の敵が伊勢街道から関ヶ原に侵入してくるのに備えた。井伊直政は茨原(現THK岐阜工場敷地内)に陣し、少し下がって松平忠吉がこれに並ぶ。その北側には寄合衆四隊が続くが、その中には赤井忠家父子・別所重治・亀井茲矩・三好為三・兼松正吉らの名が見える。

 南宮山方面の敵に対しては池田輝政が御所野に、浅野幸長が垂井一里塚にそれぞれ陣し、ここから野上村(関ヶ原東部)までの中山道の左右には、山内一豊以下中村・生駒・蜂須賀・有馬らが控えた。これらは南宮山の敵に備えると同時に、万一の際に家康の退路を確保する役割があったと見て良いかと思う。また、大垣城の押さえとしては西尾光教・水野勝成・津軽為信・松平康長が、赤坂の留守は堀尾忠氏がそれぞれ務めた。
 家康は午前七時頃に桃配山(現関ヶ原町大字野上字南桃配)に着陣、ここを当初の本陣とした。家康はこの後二度陣を移動し、最終的には陣場野に進む。

 こうして両軍の布陣が完了すると早暁から立ちこめていた霧も晴れ、刻々と経過する時間とともに緊張が高まってきた。


BACK  INDEX  NEXT