大聖寺城の戦い
〜山口宗永の関ヶ原〜

『加賀藩史料』に「前田利長大聖寺城を攻めて之を陥す。城主山口宗永その子修弘之に死す」と記された「関ヶ原」の前哨戦・大聖寺城の戦い。さて、その経緯は・・・。


前田家の危機

大聖寺城跡  大聖寺城(=写真)は現在の加賀市大聖寺地方町にあり、秀吉麾下の将山口玄蕃允正弘(宗永)が城を守っていた。この正弘はかつて小早川秀秋の補佐役を務めていたが、秀秋との仲が上手く行かず、秀吉の直臣となって加賀大聖寺六万石余を知行していたという経歴を持つ人物である。また彼の長男右京亮修弘(なおひろ)は加賀国内で一万石を領していた。さて、この山口父子の籠もる大聖寺城を前田利家の子利長が攻撃したのだが、これには次のような伏線があった。

 加賀前田家は俗に「加賀百万石」と呼ばれる通り、北陸のというより、全国屈指の雄藩である。しかし、慶長四(1599)年閏三月に前田利家が没してからは、家康とは険悪なムードが漂っていた。この時点で利長は父から「五大老」職を引き継いでいたのだが、天下を狙う家康にはこの「目の上の瘤」とでも言うべき前田家が当然邪魔であり、これを除きたかった。そして慶長四年九月、実におあつらえ向きの出来事が起こる。
 この年の九月五日、家康は伏見城から大坂城に移ったのだが、その翌日に「利長が浅野長政・大野治長・土方雄久らと謀り、九日の節句に拝賀に訪れる家康を待ち伏せて暗殺しようと企んでいる」という密告を受けたのである。もちろんこれは根拠のないでっち上げで、私には家康自らが撒かせた風説である可能性が高いと思われる。ただ『小松軍記』によると、石田三成が伏見にいた利長を訪ねて治国を理由に帰国させ、利長帰国の報を聞いた加賀一円の侍たちが金沢城に集まりだしたのを密偵を送り込んで探知、「利長謀反」の噂を撒いたとある。つまり、利長謀反のでっち上げは家康は関係しておらず、三成によるものだというのである。

 真相はともあれ、家康はさあチャンスとばかり加賀征伐へと腰を上げようとしたのだが、これを事前に察知した宇喜多秀家が利長に急報した。秀家の室豪姫は利長の妹だったからである。
 仰天した利長は家老の横山大膳長知・高山右近長房を家康の下に派遣して弁明に務め、翌年六月六日には江戸へ人質として母芳春院が赴いた。これは前田家の存続を第一に考えた、芳春院自らの決断だったという。さらに徳川秀忠の娘珠姫を利常の室に迎えることを約し、かろうじて大事を回避する。しかし別の見方によれば、徳川に対するこの卑屈なとも言える前田家の態度は、改めて「家康強し」の感を全国の大小名に与えたことであろう。その意味でも、家康の「謀略」(?)は成功したわけである。


利長と長重

小松城三の丸跡  前田肥前守利長は利家の嫡男で、当時父の遺領を引き継ぎ金沢(尾山)城を本拠に、能登・越中・加賀半国を領する大大名であった。一方丹羽五郎左衛門長重は「米五郎左」で知られる織田信長の重臣丹羽長秀の嫡男で、加賀守を称し従三位参議に叙せられていた。本拠は加賀小松城、所領は小松・松任十二万石である。左の写真は小松城三の丸跡で、現在は公園として整備されており、中に図書館などがある。
 ちなみに本丸跡の碑はここから少し離れた県立小松高校グラウンドの敷地内にぽつんと建てられており、目立たないため気付く人も少ないということであった。( →こちらに画像あり )

 さて、この両人は元々親交があり仲が良かったのだが、とあることからこじれ、やがて後述する「浅井畷の戦い」を交えることになる。そのいきさつは『小松軍記』によると、以下の通りである。

 家康は「利長の謀反」に対処するべく大坂城に長重を呼び、急ぎ小松へ戻って前田家の動向を監視するように命じ、粟田口吉光の短刀を与えた。長重は事が仲の良い利長のことなので不本意ではあったが、命じられるまま小松へ戻り監視を始めた。しかし、これを長重の身近にいた利長贔屓の者が利長に通報したことから事はこじれ出す。

 利長にしてみれば、仲の良かったはずの長重が自分に一言の挨拶もなしに監視行為を始めたことが面白くない。そこで利長は濡れ衣を晴らすべく上記の通り母を人質に出してまで弁明に務め、事なきを得た。そして家康が上杉討伐に向かった慶長五(1600)年七月、金沢に戻った利長が近隣諸将に会津攻めの軍勢を出すように通達したのだが、これを丹羽長重にも伝えたため、今度は長重がつむじを曲げる。

 家康と利長の和睦を知らされていなかった長重にしてみれば、監視までさせておいて一言も挨拶をよこさず和睦した家康が面白くない。それに加えて本来なら家康から直接命令があるはずなのに、利長からというのもおかしい。長重は「これは先頃のわしから監視されたことを根に持っていて、おびき出した上で討ち果たそうとしているのかもしれない。ここは迂闊に動いては危ない」と疑心暗鬼に駆られ、相手の出方を見るべく「病につき後陣を承りたい」と返答した。

 長重の返答を聞いた利長は、「これは不自然だ。後陣から我らに襲いかかろうという魂胆か」とまた勘ぐりだし、立て続けに使者を発し長重の出陣を促したが、彼は腰を上げない。そんな中、長重のもとへ家康・三成両者からの加担要請が舞い込む。しかし長重は利長の動向が気になり動けない。ここに至って利長は「長重は三成方に加担」と断じ、先に小松と大聖寺を踏みつぶして後顧の憂いをなくそうとばかり出陣に踏み切ったということである。


大聖寺城の戦い

大聖寺城跡の内部  さて、慶長五年七月二十六日、利長は二万五千の軍を率いて金沢城を出陣するが、間にある西軍の丹羽長重の拠る小松城を避けて八月一日に松山城(現加賀市勅使町)に布陣した。一方大聖寺城の山口宗永は北ノ庄の青木一矩(秀以)や小松の丹羽長重に救援を依頼するが、結局援軍は来なかったというか、間に合わなかった。翌日利長は九里九郎兵衛・村井久左衛門を使者として大聖寺城に籠もる山口父子に降伏を勧告するが拒否され、城攻めを敢行した。城方では宗永の子右京亮修弘が伏兵を潜ませていたが、利長方の先鋒山崎長鏡に発見され、ここに戦いの火蓋が切って落とされた。写真は大聖寺城跡内部の本丸跡への道で、規模こそさほど大きくない城だが、ご覧のように本丸への通路はかなり険しいものとなっている。

 山崎長鏡に加えて長連竜や利長の弟・利政らも参戦、激戦が展開された。修弘はよく踏みとどまって戦ったが、前田勢の鉄砲隊の乱射に隊伍を崩され、城内に退却する。引き続いて行われた攻城戦では、大軍の前田勢にもひるまず大聖寺勢も果敢に戦った。しかし戦意も高く大軍の上に命を顧みず攻め寄せてくる前田勢の前にはついに敵わず、城主宗永は塀の上から降伏の意思表示をした。しかし、前田勢はこれを許さず、城内に突入する。
 『加賀藩史料』収録の『山口軍記』によると、右京亮修弘はもはやこれまでと前田勢の先鋒山崎長鏡家臣の木崎長左衛門を呼び、自分の名を名乗った上で一太刀も交えず「功名にせよ」とその場で自刃し、首を討たせたという。城主宗永も自刃し、八月三日午後四時頃、ついに城は落ちた。山口父子の遺骸は城の麓の福田橋側に葬られ、現在その地には碑が建てられている。なお、山口父子の墓は加賀市大聖寺神明町の全昌寺にある。

 この後利長は金津へ侵攻、北ノ庄の青木一矩も異心なきを告げ、丸岡城主青木忠元も利長に和を請い、彼は北越前を平定し大聖寺城に戻った。そして何故かここから利長は金沢へ戻り、その途中で丹羽長重との激戦を行うことになる。


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