南美濃の戦い
〜高木一族の関ヶ原〜

美濃には城が多く、南濃一帯にも先に述べた福束城などの他に高木一族の拠る高須・駒野・津屋城がありました。ここではそれら三城の戦いをまとめてご紹介します。


高木一族

 高木氏は南濃一帯に居を構える土豪で、この頃は高須城の高木十郎左衛門盛兼を核に、駒野城には九郎左衛門帯刀、津屋城には八郎兵衛正家と一族で固め、一族ほぼ揃って西軍に属していたが、ただ一人貞友だけは東軍に属していた。
 この貞友は彦左衛門貞久の子で通称藤兵衛といい、慶長二(1597)年に家康に召されて仕え、翌三年には上総望陀(もうだ)郡で五百石を領しており、関ヶ原合戦の後は美濃上石津郡で千石余を与えられ、多羅郡に住んだとされる人物である。海津町歴史民俗資料館でお伺いした話によると、現在上石津町には高木一族の御子孫が住んでおられるとのことである。

 高須城は先に述べた市橋長勝の今尾城より南へ一里、揖斐川左岸の現岐阜県海津市海津町高須町に、駒野城はその川向かいの同市南濃町駒野にあり、津屋城は駒野城から揖斐川支流の津屋川沿いに北西へ一里、同市南濃町津屋にそれぞれ位置していた。
 八月十六日に福束城が落ちたため、この高木一族にもにわかに風雲が立ちこめてきた。東軍の福島正則が十七日に今尾城に入り、市橋・徳永らの戦功を賞した上で、引き続き高須城奪取を命じたのである。


高須城の戦い

現在の高須城跡  徳永寿昌は直ちに使者を盛兼に送り、開城を説得した。もともと戦っても勝てると思っていなかったと思われる盛兼の返答が面白い。開城しても良いが、すぐ近くに同族もいることなどから、一戦も交えずに開城したとあっては武人の面目に関わる。ここはひとつ、距離を置いて空鉄炮による八百長の戦を演じた上で、機を見て退去しようと言うのである。
 八月十九日、市橋・徳永は一千余の軍勢を率いて高須城北東の成田村(現海津市海津町成戸付近か)から攻め寄せた。高木勢は「形だけの戦」と悠長に構えていたところ、東軍勢は何と実弾射撃を行ってきたのである。面食らった盛兼は、欺かれたと知って怒ったが時すでに遅く、城兵を励まして抗戦するが所詮は兵力や士気の差が大きく、支えきれずに城を捨てて舟で津屋城へと退却した。
 現在、高須城跡には県立海津高校が建ち当時の面影は見られないが、近くには「城跡公園」(=写真) が作られてわずかにその名残をとどめている。なお、このすぐ近くにも「高須城と城下町」なる案内板のあるポイントがある。


駒野城の戦い

現在の駒野城跡  こちらは駒野城の高木帯刀である。彼はすでに盛兼から八百長戦と城の無血開城の報を受け取っていたので、川向かいの高須城の「戦い」を見ていたが、案に相違して激しい銃撃戦が起こり、城兵らが散り散りに駒野城や津屋城目指して落ち延びている様を見て仰天した。自分の城を目指して逃げてくる高須城兵の後ろには、追撃する東軍勢の姿が認められるではないか。と、そんな思案をしている間もなく、あっという間に城は包囲されてしまった。
 帯刀は一旦籠城も考えたようだが、東軍勢から投降を呼びかけられ、加えて一族の貞友からの説得もあり、これを受け入れて開城、東軍に属してしまった。
 写真は駒野城跡の遠望で、現在跡地には城山小学校が建てられている。


津屋城の戦い

現在の津屋城跡  一方、津屋城の高木正家はどうしていたかというと、彼のところにもすでに盛兼からの報がもたらされており、盛兼や城兵を収容する準備を整えて「戦況」を見守っていた。ところが盛兼と城兵数十がほうほうの体で逃げ込んできたため、事態の意外な進展に驚き、とりあえず敗残兵を収容して防御態勢を築こうとした。
 それも束の間、東軍の別働隊が津屋城にも押し寄せ、民家に放火して激しく攻撃を仕掛けてきたのである。正家は盛兼とともに防戦に務めたが、ここへ駒野城を包囲していた東軍がさらに到着して攻め立てたからたまったものではない。こうしてたちまちのうちに城は焼き落とされ、正家らは大垣城へと逃れていった。
 写真は津屋城跡と伝えられる本慶寺で、脇に立つ案内板によると、今の本堂の位置あたりが当時本丸のあった場所ではないかということである。


INDEX NEXT(上ヶ根の戦い)