応仁の乱と筒井党
〜混乱する河内・大和〜

筒井氏はじめ大和国人衆は河内畠山氏の内紛の影響を受け、二派に分かれて抗争を繰り返します。そして中央では将軍の後継者争いが激化し、応仁の乱が勃発します。


応仁の乱と筒井党

 翌応仁元(1467)年、京都を舞台に応仁の乱が勃発する。一言で言えば将軍家の後継者争いなのだが、これに河内畠山氏の抗争などが絡み、細川勝元率いる東軍と山名宗全率いる西軍が京都を舞台に11年間に渡って戦うという大乱となる。筒井党は政長方(東軍)として戦うが、越智党・古市氏などは義就方(西軍)に加担するなど、大和の国人衆も以前の抗争をそのまま継続する形で東西二派に分かれて戦った。
 文明元(1469)年十一月、筒井方の名将・成身院光宣が没し、跡を順永の子順宣(順盛)が嗣いだ。筒井党は越智党のみならず、畠山義就方の遊佐氏などとも激闘を演じる。光宣を亡くしたものの、順永は上洛してきた西軍の大内勢とも戦うなど奮闘するが、同六年六月には大和各地で争いが起き、収拾のつかない状態となっていった。
 大乱も終盤に差し掛かった文明七(1475)年六月の状況として、

「越智之一門 吐田 曽我高田 小泉 高山 万歳 岡 古市 山田 山陵、筒井之一門 十市 楢原 布施 高田 秋篠 宝来 木津 立野 箸尾 片岡 超昇寺 佐川」(『大乗院寺社雑事記』)

とあり、「越智之一門」「筒井之一門」と見えるように寺社方でも大和国人衆は越智・筒井両派において戦っていたものと認識していることがわかる。

 同年七月の記録には

「豊田息近江公昨日祝着子細有ル之云々、平郡嶋息女可成福智堂之縁之由兼約之処近年没落間異変云々」(『大乗院寺社雑事記』同年七月二十日条)

とあり、「福智堂」なる人物が近年没落していたため、婚儀を予定していた島氏の息女が豊田近江祐英の妻となったようである。豊田氏は山辺郡豊田城(現天理市)を本拠とした国人で、当時筒井党とは敵対関係にあった。この時期大和国内では西軍方が優勢であったことを考えると、婚儀というより筒井党からの人質的な意味合いを持っていたのかもしれない。

 さて、文明九(1477)年七月に少々興味深い記録が見られる。

「興胤内々付才學、山田庄代官事、定寛競望之条も勿論也、以河内公令申東北院之處、不及領状云々、又平群嶋以長教内々希望、色々契約共在之而、代官事者治定勿論也、於成身院事子細能々令存知云々、嶋も定寛も遊佐方と半吉物也、可成如何哉、此条ハ隠蜜子細也、不可口外云々」(『大乗院寺社雑事記』文明九年七月二十一日条)

 記録中の山田庄とは山城相楽郡(現京都府相楽郡加茂町)にあり、藤原家忠・高陽院・広橋家・近衛家・摂関家領としての庄園である。また「河内公」とは河内畠山氏執事で守護代を務める遊佐河内守長直のことで、長直は政長(のち尚順)方だったことから、島氏は彼に取り入って山田庄の代官職を望んでいたものとみられる。これは一例であるが、大和国人衆は河内両畠山氏の影響を色濃く受けており、その活動の及ぶ範囲は大和国内に限られるものではないことが窺える。


義就方の優勢へ

 同年十月九日、義就方は長直を攻め河内若江城(現東大阪市若江北町)を攻略するが、この時の様子が以下のようにある。

「一 嶽山城没落、責手大和吐田勢云々、昨日事云々、
 一 往生院城責洛(落)之、
 一 若江城没落、遊佐河内守長直自天王寺令乗船没落了、河内國一國於于今者悉右   衛門佐方如所存成下了、珍重事也、
 一 自信貴山越被責和州、平郡(群)嶋没落自燒、或發向之云々」(『大乗院寺社雑事記』文明九年十月九日条)

 義就勢の攻撃に河内嶽山・若江城が落とされており、嶽山城の攻め手は吐田氏と見える。この結果遊佐長直は天王寺から船に乗って逃れ、筒井党の島氏も信貴山越えに攻められて平群谷の居館(城)を自ら焼いて没落した。
 翌文明十(1478)年の『多聞院日記』に以下のような記述がある。

「一 南大門ノ幡ユイ付シ杭ノ事、修理目代ヨリ如先例付庄役被下知、子守請取之歟ト云々、今度西方ノ杭依催無沙汰ニ、平郡(群)嶋方逐電トテ不上ト云々、東西各廿本ハカリ歟ト云々、東方ハ楢庄・森本以下ヨリ上ル歟ト云々」(正月十三日条)
「一 平郡(群)之郡、河内國人豐岡方自畠山殿稱御給恩強入部云々、自武家方知行之事、神國之稱號只今令失歟、(後略)(九月十日条)

 正月十三日条には「逐電」という文言が使われており、文明十三(1481)年の『大乗院寺社雑事記』九月二十九日条にも「文明九年酉九月廿一日畠山入国以来没落輩」として「嶋、曽歩々々」の名が見えることから、平群谷に本拠を置いていた島・曽歩々々両氏は、ともに一旦同地から消えたことは間違いないようである。
 さらに九月十日条にあるように、河内畠山氏麾下の国人「豊岡」なる者が畠山氏から平群谷を与えられて入部している模様で、これについて同日記の当時の著者学賢房宗藝は「(大和平群谷が)武家より知行されるとは、神国大和の称号はここに失われるのか」と嘆いている。つまり、島氏が脱出したあとの平群谷は、畠山氏(義就)の被官人によって支配されていたわけである。

 遡って文明五(1473)年三月には西軍の主将・山名宗全が享年73歳をもって没し、二ヶ月後の五月には後を追うようにして東軍の主将・細川勝元も享年44歳をもって没していた。結局大和の情勢は西軍方優勢のうちに大乱が終息するのだが、筒井党はこの後二十一年間の長きに渡って没落する憂き目にあう。


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