二十一年間の没落
〜牢人となった筒井党〜

大和国内では西軍優勢のうちに大乱は終息しました。義就方に敗れた文明九年以降、筒井氏と筒井党は二十一年間もの没落生活を味わうことになります。


二十一年間の没落

 大乱は終息したが、筒井党は没落してしまった。平群谷から脱出して牢人となった筒井党の島氏も、この後二十一年の長きに渡って流浪する。この間、島氏は筒井氏とあくまで行動を共にしたのか、それとも別行動をとったのかであるが、約一年後の文明十年九月に山城にて事件を起こしている。

「一 嶋方より慈恩院ニ可申所存之由、入書状畢、今度於京都自廣橋方嶋事被及厳蜜之沙汰之間如此云々、片岡与嶋不和之間、片岡之住人為商人京都経廻之處、嶋方より召取之了、彼商人於京都者廣橋之被官人故也云々、定而木津庄以下可相支者也」(『大乗院寺社雑事記』文明十(1478)年九月一日条)

「片岡与嶋不和之間」と見える通り島氏と片岡氏は仲が悪かったようで、廣橋家の被官人である「片岡の住人」が商人となって京都を巡り歩いていたところ、島氏がこれを捕らえたとのことである。片岡氏は島氏と同じ春日社国民(興福寺一乗院方坊人)で、片岡城(現奈良県北葛城郡上牧町)を本拠に現在の北葛城郡王寺町・上牧町一帯を領した国人である。
 後の文明十八年の『大乗院寺社雑事記』十二月三十日条に「平群嶋、木津執行祖父入滅云々」と見え、当時没した平群島氏の一族が興福寺一乗院領である山城木津庄の庄官だった可能性が高い。木津庄の隣の山田庄は廣橋家領ということもあり、『平群町史』によるとこの商人は酒麹を商っていたとみられることから、事件の背後には南山城における商業活動に絡んだ利権争いがあったのではないかと思われる。

 この間、文明十四(1482)年十月三十日には生駒・平群・鳥見の里が古市・越智衆に焼き払われ、翌十一月一日には鳥見谷で高山氏・筒井衆が応戦、局部的には勝利はしたものの、郡山西で古市衆の待ち伏せに遭い敗退するという事件が起こっているが(『大乗院寺社雑事記』)、記録中に島氏の名は見えない。つまり島氏は筒井氏とは別行動を取ったとも考えられ、もしそうなら島氏はこの間、木津またはその周辺にいた可能性が高い。つまり上記事件の起こった場所は大和ではなく、南山城ではないかと考える。

 義就は河内・大和をほぼ手中に収め、十一年間に渡って繰り広げられた大乱もようやく終息を迎えたが、義就が延徳二(1490)年十二月に没した後も子の基家(のち義豊)が家督を嗣いで政長に対抗、このため大和国内の混乱はまだ収まらなかった。


明応の政変と政長の死

 明応二(1493)年二月、室町幕府十代将軍足利義材(よしき=のち義尹・義稙)は畠山基家討伐に向け、河内正覚寺(現大阪市平野区加美正覚寺)に出陣して政長と合流するが、この間義材不在の京都では大事件が起こる。細川勝元の子・政元がクーデターを起こし、四月二十二日に天龍寺塔頭香厳院よりかつての堀越公方・足利政知の子清晃を迎えて将軍位に据え、義材を廃したのである。これが明応の政変と呼ばれるもので、清晃は義遐(よしとお=後に義高・義澄)と改名し十一代将軍となった。
 まだ余韻の残る閏四月二十五日、政長らは基家に肩入れした細川政元の援軍に正覚寺において敗れ、政長は自刃し義材は降伏するという結末を迎えると、子の尚順が後を嗣いで基家と対抗した。『大乗院寺社雑事記』同日条に、

「一 辰時正覺寺御陣破了、畠山左衛門督自害、子息尾帳守没落、遊佐父子打死、城中死人二十人云々、公方・葉室大納言以下數十人上原手ニ奉取之、御小袖定而可取之歟云々、御小袖奉行一色代吉原、越智手ニ取之、松殿中将古市手ニ取之条無為、在々所々死人・生取有之、不及一合戰而破了、左衛門督不覺也」

と見え、越智氏・古市氏が畠山基家・細川政元方についていることがわかるが、この際の「前」将軍義材の動きに注目してみると、

(前略)畠山総州義豊河内国誉田ニ在城シテ政長ト不快ノ事アリ、已ニ上意ニモ背シカハ、公方義材公ハ尾張守政長ニ御心ヲヨセラレ、正覚寺ヱ御動座アリテ義豊ヲ御対治アル、(中略) 敵陣已ニ四万余騎、味方ハ二千余人、九牛カ一毛ニテ叶ヘキヤウ更ニナシ、先ツ公方ヲハ落シ奉レトテ、夜ニマキレ御馬ニメサレテ和州筒井ノ城ヱ落サセ玉フ(後略)(『足利季世記(第一)』)

「二百余人ノ者共一騎モ不残自害シテ、城ニハ火ヲ掛、片時ノ煙ト焼失ケリ、其ヨリ将軍ノ行衛ヲ捜シ参ラセケルニ、和州筒井ノ城ニマシ〃〃ケレハ彼城ヨリ取奉リ、政元ヲ始メ其外一味ノ面々帰京セシメケリ、将軍義稙公ハ上原左衛門大夫生捕リ奉リ上京スル、角テ細川政元ハ河州ヨリ帰洛シテ、(後略)(『畠山家記』)

 この他『公方両将記』『応仁後記』にも同様の記述が見え、将軍義材は一旦正覚寺から筒井城へ落ち延びたが、政元内衆の丹波守護代・上原左衛門大夫(元秀)に生け捕られ、京都へ護送され元秀の屋敷に幽閉されたようである。義材はやがて隙を見て京都を脱出、神保長誠を頼り越中放生津(ほうじょうづ・現富山県新湊市)へと向かうのだが、『大乗院寺社雑事記』の次の記述が気にかかる。

「平郡(群)嶋於越中入滅云々、不便々々、顕乗房父也」(明応三年十一月十六日条)

放生津の義材像  後の同記明応九(1500)年四月条に「持寶院ハ顕乗房分也」と見えることから、明応三年に越中で没した島氏の子・顕乗房が興福寺塔頭持寶院の主であり、父子が越中・奈良に分かれ住んでいたわけである。『奈良県史11 大和武士』では顕乗房の父がなぜ越中にいたのか不明とあるが、上記諸書の記述を信ずる限り、足利義材に従って越中放生津に赴いたと考えたい。つまり、島氏の他にも義材に従って越中に赴いた大和国人の存在が考えられ、その場合同行した国人は筒井党と思われる。
 ちなみに義材は放生津に五年滞在した後、越前一乗谷の朝倉貞景のもとに移る。ここで義尹(よしただ)と改名し、同八(1499)年十一月には帰洛を画策して近江坂本まで兵を進めるものの政元・六角氏らの迎撃に遭い果たせず、周防の大内義興のもとへと流れていった。義尹が将軍位に復すのは永正五(1508)年七月のことで、同十年に義稙と改名している。
(写真は新湊市の放生津橋西側に立てられた義材像。東側にも別の像がある)


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