長編歴史小説
大坂の華
by 佐山 寛
第一章
左近と小十郎
二
島左近の語るところによると、前野重吾は甲賀の下忍上がりだという。すなわち、俗に言う甲賀忍者である。ここで少しその甲賀忍者について語っておこう。
忍者といえば、有名なところとしては、まず甲賀と伊賀があげられる。この頃から江戸初期にかけては、いくら徳川氏の勢力が台頭してきたとはいえ、まだまだ大名達は太平到来とは思っていない。現にこの十五年後、あの大坂冬・夏の陣がおこるのである。
したがって諜報活動をしていない大名など皆無と言ってよく、忍者は非常に重宝されていたのもまた事実である。しかしその待遇には、大名によってかなりの差があった。
重吾の出身地の甲賀の里は、近江の国(現在の滋賀県)東南部に位置する。山ひとつ隔てた隣郷が伊賀の里である。甲賀には[甲賀五十三家]と呼ばれる郷士の家々があり、それぞれの家で忍者を育てていたと伝えられている。そしてその忍者達を全国各地の大名に差し向け、報酬を得て生計を立てていたのであった。今風に言えば、[人材派遣業]である。この家々の長を上忍といい、雇われて下働きをする忍者達を下忍という。
重吾はかつては上忍・山中俊房を頭領と仰ぐ下忍であった。[かつては]というのは、今はもう山中俊房の手を離れていることを示す。
甲賀忍者の掟は厳しく、頭領の命令にいったん逆らったら最後、裏切り者として他の忍者から追われ、まずその生命を保つことは出来ない。むろん重吾とて例外ではなく、何人もの甲賀忍者群の襲撃を受けたが、悉く退けてきた。それだけの腕が重吾には、ある。
山中俊房は、始めは豊臣秀吉の諜報網を司っていた。しかし秀吉が死に、秀頼の代となっては豊臣家はもはや心許ない。そこで、人を介して徳川家康の知恵袋と言われている本多正信に渡りをつけ、昨年より徳川家に鞍替えしたのであった。
俊房は豊臣家の家臣や他の大名家に入り込んでいる下忍たちに召還命令を出したが、重吾だけがこの命令を拒んだ。彼は以前より三成にかわいがられていたこともあって、秀頼を見捨てるに忍びず、そのまま一人石田家に残った。左近はかねてから重吾の腕に目を付けており、これを機に一躍彼を石田家の忍び頭に抜擢したのである。もともと石田家には忍者などほぼいないに等しい状態だったが、彼が頭領になってからは一人、二人と腕利きの忍者達が左近によって召し抱えられていった。
今では重吾や左近の招きに応じて雇われた忍者の数は約二十名。いずれも腕利き揃いで、中には伊那忍びや薩摩忍びなどもいるという。もちろん甲賀が裏切り者を許すはずはなく、それ以来十数名の忍者が重吾に制裁を加えるべく佐和山に潜入したが、悉く返り討ちにあっていた。
重吾は優れた忍者である。俊房としても、大事の前にこれ以上手持ちの下忍を死なせるわけにはいかず、内心歯がみをしながらも徳川家の諜報活動を急いでいた。しかし重吾のことを忘れたわけではない。
甲賀忍者は、裏切り者に対しては非常に執拗な制裁を加えることで知られている。彼らは集団で行動するため、一糸乱れぬ結束こそがその本命なのである。
派手な術を使ったりするものではなく、敵のもとに入り込み何代もにわたって情報を流し続ける者もあれば、また色々な風体に変装して連絡役のみに徹する者もある。
そういういわば「分業制」の集団なので、一人でも裏切り者が出れば、全体の構想計画が根こそぎ覆されてしまうからである。だから裏切り者に対する制裁は厳しい。
つづく
BACK 目次に戻る NEXT