長編歴史小説
大坂の華
by 佐山 寛
第一章
左近と小十郎
三(つづき)
彼らの頭領は前述の山中俊房であるが、その俊房へは本多佐渡守正信から指令が飛んでいる。正信は鷹匠あがりの人物で、家康が「わが友である」と言うくらい深い信頼をおかれている、徳川家の隠れなき軍師である。
重吾が言う。
「小十郎殿、実は当家の家来にも徳川の隠密が二名入り込んでござる。殿はそれを承知の上で泳がせておられるが、事ここに至っては、これ以上泳がせておくわけにはまいりませぬ。しかし、その者は当家きっての剣の使い手である上に、もう一人が腕利きの下忍びでござる。おそらくは、いざともなれば殿のお命を縮めんとするものであろう。それほどの腕ゆえ、我らにて始末するにも多少の損害は覚悟しなければなりませぬ。今、我が力となる忍びの数がまことに足り申さぬ。一人でも欠けられては困るのでござる。さらにそれが万一失敗して徳川方に漏れるような事になれば、三成公にも難儀がかかるは必定。三成公は形の上で今内府より謹慎を仰せつけられている身でござる。そうなれば、殿の計画もすべて水の泡。そこで、手強い相手だが小十郎殿にその者の始末をつけていただきたいのでござる」
孫市が表情を引き締めて割って入る。
「なるほど。して、その手筈は?」
「順を追ってご説明申す。まず、その者の名は林田小平太と申し、念流の使い手にござる。我らは剣のことにはとんと疎うござるが、かの者の身の配りは尋常ではござらん。まったく隙がない」
念流は上州の地に生まれ、日本の剣術史に古くから名を知られている名流で、発祥の地が馬庭村であったことから、馬庭念流とも称される流派である。
「兄者、これは面白くなってまいりましたな。で、重吾殿、あと一名はどのような」
「弥平と申す甲賀忍びで、もう長い間当家の下男として奉公してござる。殿としては、なるべく早く始末をつけたいところでおられようが、あせっては元も子もなくなり申す。幸い、明後日に殿は大坂へ所用で参られる。その際、小平太と小十郎殿に供をおおせつけられるようお願いしてある。小十郎殿、この機を逃してはなりませぬ。殿はすべてご存じじゃ。存分に腕をお奮いなされ。小平太を始末して下され」
「弥平と申す忍びはどうされる」
「私の一命にかけても仕止めて見せ申す。弥平一人ならばなんとか討てよう。ただ気がかりなのは、弥平が近頃よく外出していること。先日も夜にこっそり屋敷を抜け出すところを私の配下の忍びが目撃している」
「ひょっとすると、もう弥平とやらは動き出しているのかもしれませんね」
「さよう、応援の忍びが来るようならこれはちと厄介」
「これは急いだ方がいいかもしれない…では、孫市は重吾殿とともに弥平を始末する方に回ってくれ」
「兄者、承知!」
「小十郎殿、小平太についてひとつ。聞くところによると彼は[霞の剣]という必殺剣の遣い手だそうな。私も見たことはないのでどんなものかは知らぬが」
「霞の剣…、昔源蔵先生より聞いたことがあるような気がしますが、はて」
「兄者、それは念流の免許皆伝の者でもごく一部の者しか遣える者はないと言われている技ですよ。私も聞いたことがある。これはよほど気を引き締めてかからないと…」
「小十郎殿、とにかく気をつけて下され」
「わかりました。とにかく全力を尽くしましょう」
つづく
BACK 目次に戻る NEXT