長編歴史小説
大坂の華
by 佐山 寛
第二章
死 闘
一(つづき)
徳川家康は諜報活動の重要さを身に沁みて知悉しており、めぼしい相手の家中や城下には最低二名以上の何らかの形の忍びを差し向けていたという。これらの忍者の束ね役は先にも述べた本多正信であるが、ここで徳川方の忍者の構成について説明しておこう。
忍者というものは大きく二つに分けると、[戦う忍者]と[戦わない忍者]に分けられる。
[戦う忍者]すなわち[戦忍び]には相手の家臣や小者に成りすまして情報を送り、いざというときには剣や槍をもって戦うもの…林田小平太や弥平のような者と、普段は百姓や町人などの姿に変装し、相手方の領内で庶民同様の生活をしておいて、戦闘時には集団で何処からともなく現れ、手裏剣などで戦う者とがある。当然、彼らは選び抜かれた者だけにその戦闘能力は高い。
また[戦わない忍者]にも二種類あり、各地に色々な姿となり分散し、その地に根付いて地道に何年にも渡って情報を送り続ける者と、民衆に雇われ主側の都合の良いような情報を植え付けたり、行動をあおり立てたりする、いわゆる「煽動」役の者たちがいるが、これらを併せてこの物語では[草忍び]と呼ぶことにしよう。
忍者、特に[戦忍び]になるためには、天性の素質に加えて言語に絶する努力を要する。五歳を過ぎる頃にもなれば、頭領から目を付けられた子供らは、それなりの訓練を施される。十年以上かけて訓練され、戦闘に十分適格と見なされた者のみが晴れて[戦忍び]として働く場を与えられるのである。この訓練に耐えうる者は全体の一、二割程度しかいないといわれている。つまり大半は途中で命を落とすか、不具者になってしまうのである。現在の我々には想像を絶する、非常に厳しい世界なのである。
徳川方では甲賀をはじめ各地の上忍を雇い、ほとんど全ての大名家に潜り込ませている。もちろん、家康自身や主立った武将の警護役としても数人ずつの忍者が割り当てられているのである。その数、数百名にものぼる忍者たちの総指揮をとるのが本多正信である。
さて左近一行が京の街を通過しようとしている頃、島屋敷では重吾と孫市らが弥平を始末すべく、行動を開始していた。しかし、このとき既に島屋敷は十余名の徳川方忍者群によって包囲され、彼らの行動が見張られていようとは、さすがの重吾も気付かなかった。
つづく
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