戦国浪漫・人気武将ランキング
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第1位 真田幸村 174 
昌幸の子で本名は信繁。大坂夏の陣で赤備えの軍団を率いて家康の本陣に迫り、島津家の士に「真田日本一…」と言わせたほどめざましい奮戦をするも、ついには衆寡敵せず力尽き安居天神境内にて戦死。その見事な兵の進退と鬼神のような武勇を敵からも讃えられ、遺品は髪の毛一本に至るまで奪い合いになったという。

第2位 織田信長 173 
軍政両面に数々の新機軸を採用した戦国の革命児。今川義元4万の大軍を桶狭間にてわずか2千の軍勢で撃破するという強運に始まるも、天下統一事業の半ばで隙をつかれて明智光秀の謀反に遭い、燃え上がる本能寺にて自刃するという悲運の最期を遂げた。

第3位 上杉謙信 162 
戦国の神将と呼ばれ自らを毘沙門天の化身と信じ、出陣した合戦は全て負けることがなかったという。長尾為景の子で国内の豪族たちの統制力に欠けていた兄晴景を隠居させ越後国主に。かつては敵であった上杉憲政から頼られて関東管領職を譲られ、長尾景虎改め将軍義輝の一字を頂き上杉輝虎を名乗る。義戦に明け暮れた生涯を送るも日頃の大酒が災いして病死。


第4位 武田信玄 99 
甲斐守護武田信虎の嫡男。はじめ晴信、のち入道して信玄を称す。軍政・外交・謀略すべてに優れた名将で、無敵の騎馬軍団で知られる戦国時代の巨星。惜しむらくは北隣に上杉謙信という偉大なライバルがいたため、思うように版図は拡大できなかった。上洛途中に持病の労咳が悪化、遠江三方ヶ原に家康を撃破したが帰国途中に信州駒場の陣中で病没。

第5位 伊達政宗 93 
輝宗の子。仙台藩祖で幼時に右目を失明、独眼竜の異名を持つ奥州の名将。父輝宗の奇禍により家督を相続して以来、奥州の国人衆を次々と攻略、広大な勢力を築いたが秀吉の小田原攻めへの遅参を咎められ、所領を削られた。長女の五郎八(いろは)姫を家康の子・忠輝に嫁がせ徳川家との結びつきを強め、また南蛮貿易を企図し家臣の支倉常長をスペインに派遣した。

第6位 真田昌幸 82
幸隆の三男で戦国屈指の策謀家。元武田信玄の近従で初め武藤喜兵衛を名乗っていたが、長篠合戦で二人の兄が相次いで戦死したため当主に。関ヶ原の合戦では西軍につき、戦後高野山へ流され九度山善名称院(真田庵)で病没。「表裏なき人」と言われながらも謀略の限りを尽くし、小大名真田家を戦国期の荒波から守った名将。

第7位 大谷吉継 74 
近江伊香郡の出自で大谷吉房の子と伝えられ(異説あり)、通称は紀之介、刑部少輔を称す。秀吉の近侍から次第に頭角を現し、越前敦賀五万石の城主となる。娘が真田幸村の妻で、名は吉隆とも。地味ながらも親友石田三成との義に生き義に殉じた悲運の名将。関ヶ原の際に隣に陣した脇坂安治ら四将の裏切りに遭い、奮戦ののち自刃。巷説では持病のハンセン氏病が悪化して盲目であったと伝える。

第8位 島津義弘 68 
義久の弟で島津家第十八代当主。戦国史上に名高い薩摩の猛将で、文禄・慶長の役の際にはその無類の強さから「鬼石曼子」と呼ばれ怖れられた。関ヶ原の際にはわずか千五百の軍勢を率いて参陣、世に「島津の前退」と呼ばれるその敵中突破の凄まじさは今もなお語り継がれる。

第9位 島 左近 66  
大和平群谷の出自か。名は清興。他に勝猛・清胤・友之・昌仲などとも記録に見える。筒井順慶の下で松蔵右近とともに「筒井の右近左近」と並び称された名将で、筒井家の伊賀移封後に定次のもとを離れ、石田三成から高禄で招聘されたとされる。石田家の筆頭家老を務め軍事全般を司り、関ヶ原の前哨戦・杭瀬川の戦いでは小戦ながら東軍方中村一栄を破る。しかし翌日の決戦で黒田長政隊の銃撃を受けて負傷、以後の消息は不明。戦死したとも西国・京都・東北などへ脱出したとも伝えられる。

第10位 前田慶次郎 62 
利家の甥で名は利大(利太)。戦国のかぶき者(奇人)の代表格で、後に穀蔵院忽之斎(ひょっとさい)を称す。そのくせ戦には滅法強く、上杉景勝に仕え名馬松風にまたがって戦場を駆け回ったと伝えられる。特に長谷堂城の戦いでは退却時に奮闘して追撃する最上勢を支え、直江兼続を助けたことで有名。晩年の消息は不明で、米沢で没したとも大和で没したともいう。


第11位 直江兼続 55 
上杉謙信・景勝に仕えた知勇兼備の名将。山城守。越後坂戸城主長尾政景の家臣樋口惣右衛門兼豊の子で、天正十年に景綱の婿信綱が亡くなっていた直江家を継ぐ。謙信の近侍時代から才覚を現し、景勝の家老となる。徳川家康の上杉討伐時に真っ向から挑んだ「直江状」で名高い。

第12位 本多忠勝 49 
忠高の子。徳川四天王の一人で上総大多喜のち伊勢桑名城主。幼名鍋之助、通称は平八郎。従五位下中務大輔。徳川家武闘派筆頭の猛将で、家康の三河時代から頭角を表し、その活躍は枚挙にいとまがない。生涯大小五十余度の戦いをくぐり抜けてもひとつも傷を負わなかったといい、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と謡われた徳川家自慢の名将。

第13位 徳川家康 47 
江戸幕府初代将軍。桶狭間での今川義元戦死を機に独立、織田信長の同盟者として信頼される。信長の命により長男の信康を切腹させるなど幾多の試練にも堪え忍び、ついには秀吉の没後に諸大名を集めて関ヶ原の合戦に石田三成を破り天下を掌握。1603年には江戸幕府を開き、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼして太平の世を築いた戦国の最終勝利者。

第13位 毛利元就 47 
弘元の二男で政治・戦術・謀略・外交のいずれにも長じた安芸吉田郡山城主。厳島合戦では村上水軍の力を借りて陶晴賢の大軍を奇襲で破った。大内・尼子両大大名の間に板挟みになり、少ない兵力ながらその優れた謀略を駆使して毛利家を中国の大大名に発展させた名将。

第15位 竹中半兵衛45
元斎藤龍興の家臣で本名は重治。その容貌や的確な状況判断で羽柴家の諸葛孔明と言われ、羽柴秀吉時代の数ある戦功の大半はこの重治の活躍に負うところが大きい。生来病弱なタイプだったため、秀吉に従って中国平定出陣中に姫路の陣中で病没した。

第16位 黒田官兵衛42 
通称官兵衛、後に如水軒円清、受洗名ドン・シメオンを持つキリシタン大名。播磨国姫路の生まれで初めは小寺姓を名乗る。竹中半兵衛亡き後秀吉を補佐した軍師で、その知謀は秀吉すら恐れたという。信長の重臣荒木村重の謀反時に使者として派遣されたが有岡城内の牢獄に幽閉され、後に救出されたもののこれが元で終生足が不自由に。後に豊前中津12万石の主に。

第17位 豊臣秀吉 37 
関白、太閤。戦国一の出世人。信長の草履取りから侍大将、大名と出世し、その重臣として中国方面司令官を務める。本能寺の変の際には「中国大返し」と言われる早業で備中から軍を返し、山崎にて明智光秀を破る。翌年賤ヶ岳にて柴田勝家を滅ぼし不動の地位を固め、天正十八年には小田原北条氏を滅ぼしついに天下を掌握。しかし晩年に二度の朝鮮侵略の暴挙に出て失敗、その途中の慶長三年八月十八日に病死。

第18位 石田三成 34
正継の子。通称佐吉、天正十三年従五位下治部少輔に叙任。豊臣家五奉行の一人。近江国石田村出身で豊臣秀吉側近の吏僚から台頭、秀次失脚後は近江佐和山城主となり十九万四千石を領した。秀吉没後の慶長四年閏三月、前田利家が没すと朝鮮役で恨みを抱いた福島正則らに襲われ、仲裁に入った家康の裁断で佐和山城に隠居した。関ヶ原では西軍の実質的指揮官となり徳川家康と戦うが、連合軍の足並みが揃わず小早川秀秋らの裏切りにも遭って大敗。脱出行中に田中吉政の手に捕らえられ、十月一日に小西行長・安国寺恵瓊らと京都六条河原にて斬首された。法名「江東院正岫因公大禅定門」、墓所は京都大徳寺三玄院。

第19位 明智光秀 30
織田信長の家臣で通称十兵衛、日向守を称す。美濃土岐氏の出身とされる信長幕下随一の智将で、惟任(これとう)姓を賜る。天正十年、謀反を起こし本能寺に信長、二条城に信忠を攻め滅ぼすが、報を聞き急遽中国から引き返した羽柴秀吉に京・山崎の合戦で大敗、居城の近江坂本城へ引き返す途中に小栗栖で土民の槍にかかり落命。

第20位 鈴木重秀 26 
佐太夫の子。雑賀孫一(孫市)の名で有名な、紀州の鉄砲集団・雑賀党の頭領。石山合戦時に本願寺に協力して各地を転戦するが、1577年信長の紀州攻めに遭い降伏。秀吉の紀州攻めの際には太田城へ勧降の使として赴いた。また「孫一」は1589年5月2日に歿しているが、これは複数人物の呼称と思われ、重秀の没年時とは断定できない。
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第20位 立花道雪 26 
はじめ戸次鑑連を名乗る。名刀「雷切(らいきり)」を持ち、落雷による半身不随の身ながら三十七度の合戦に勝ち「鬼道雪」と呼ばれた大友家の猛将。高橋紹運とともに大友宗麟を助けたが、筑後北野の陣中で歿した。


第22位 小早川隆景22 
毛利元就の三男で、後に豊臣家五大老の一人。山陰方面を担当した兄の吉川元春とともに毛利家を支え、山陽方面を任され毛利水軍を統率した。朝鮮の役の際には碧蹄館の戦いにおいて明の大軍を撃破。温和な人柄で主君輝元や家中の信頼を集めた知勇兼備の名将。

第22位 斎藤道三 22 
何度も名を変えたが、最終的には山城守利政。蝮の異名を持つ戦国屈指の謀将で、山城国生まれの説が有力(諸説有り)。一介の油売りから身を起こし、美濃守護土岐氏に出入りを許されたことをきっかけに謀略の限りを尽くして美濃一国を手中にしたとされるが、これは道三の父と二代にわたってのこととする説がある。娘は信長の妻。土岐頼芸の子との噂があった長男の義龍と対立し、長良川畔で戦って討死。

第24位 島津義久 21 
貴久の子で島津家第十六代当主。冷静で状況判断力に優れ、薩摩・大隅・日向の三州を統一。次いで肥後の相良氏も降し九州全土を席巻する勢いだったが、秀吉の大軍の前には家の存続を優先、断固反対する家臣を押し切って剃髪して降伏。

第25位 立花宗茂 20
実父は高橋紹運、義父に立花道雪をもつ筑後柳川の勇将。関ヶ原の際には西軍に加担したため、戦後所領を没収され奥州棚倉一万石へと減封されたが、私利私欲のない行動は家康にも高く評価され、後に筑後の旧領に復した。

第26位 山県昌景 19 
武田家の重臣。信玄の重臣・飯富虎昌の弟で、初め飯富源四郎と称したが信玄の命で甲斐の名族・山県氏の名跡を継ぐ。「山県の赤備え」と呼ばれ恐れられた無敵の騎馬軍団を率いた。長篠の戦いでは再三の諫言も勝頼には聞き入れられず、全滅を覚悟の上敵方の鉄砲隊に突撃を繰り返し壮絶な戦死。

第27位 豊臣秀長 17
通称小一郎、のち大和大納言。秀吉の弟で、兄の覇業を蔭で支えた最大の功労者。特に但馬平定戦・四国攻め・九州攻めなどで活躍した。温厚な性格で人当たりもよく皆から慕われたが五十一歳で病死。豊臣政権の事実上の治政実務を司った名補佐役。

第28位 蒲生氏郷 16
織田家〜豊臣家に仕えた知勇兼備歴戦の名将で、後の会津九十万石余の主。信長からも信頼され、合戦の際には鯰尾の兜をかぶり常に先頭で奮戦したという。家康嫌いで有名だったが、京で謎の急死を遂げたため、その知謀を恐れた秀吉に毒殺されたとの説もある。また教養ある武将としても知られ、茶道では「利休七哲」の一人に数えられる。

第28位 柴田勝家 16
通称修理亮、一度織田信長の弟信行に加担して謀反したが失敗、降伏し許されてからは信長の忠実な家臣となる。「瓶(かめ)割り柴田」の異名を持つ織田家筆頭家老の猛将で、信長没後に清洲会議で秀吉と衝突、賤ヶ岳合戦で敗れ居城の越前北ノ庄で妻である信長の妹・お市の方とともに自刃。

第30位 長宗我部元親15
国親の子。軍政両面に優れた土佐の名将で、分国法「長宗我部元親百箇条」を制定したことで知られる。わずか10年で四国全土の覇者となるが、時運拙く秀吉の大軍の前にはなす術なく降伏し、この後は忠実な秀吉傘下の大名となる。小田原攻めの際には軍艦大黒丸に乗り土佐水軍を率いて海上を封鎖した。


第31位 高橋紹運 14 
本名は鎮種(しげたね)。筑前宝満・岩屋城主で、立花宗茂の実父。岩屋城の戦いにおいて島津5万の大軍をわずか数百で迎え、徹底抗戦の末に一人残らず玉砕という壮絶な最期を遂げた大友家の名臣。

第31位 前田利家 14
元は織田信長家臣で通称又左衛門。若い頃は武芸に長じ「槍の又左」の異名をとり、母衣(ほろ)衆を務めた。秀吉の藤吉郎時代からの親友で、賤ヶ岳の戦いの際には戦線を離脱し柴田勝家の敗因を作った。豊臣家五大老の一人として秀吉を助け、家康の野望を牽制した加賀前田百万石の祖。

第33位 吉川元春 12
毛利元就の次男で山陰方面の統治を任され、山陽方面を任された弟の隆景と「毛利両川体制」の一翼を担って当主輝元を補佐した毛利家武闘派筆頭の猛将。上月城攻めでは降伏した猛将山中鹿介を護送途中に謀殺。徹底した秀吉嫌いで知られ、その九州島津攻めの際に嫌々参加したが小倉の陣中で病死。

第33位 松永久秀 12 
大和多聞山・信貴山城主。戦国期屈指の謀略家で主の三好長慶から実権を奪い、時の将軍義輝を二条御所に攻め殺害した。筒井順慶との戦いで奈良の大仏殿を焼いたことでも知られる。信長に属すが再三背き、ついには信貴山城で名器平蜘蛛茶釜とともに爆死。

第35位 加藤清正 11
秀吉子飼いの勇将で賤ヶ岳七本槍の一人。「虎退治」など数々の逸話を残す。築城の名人で知られ、後の居城の熊本城は難攻不落の名城として特に有名。大坂の陣の前に豊臣秀頼が二条城で家康と会見した際に警護役として随行、帰国直後に謎の急死。ために毒殺説が囁かれたが詳細は不明。

第35位 高坂昌信 11
通称弾正、武田信玄の重臣で信州小諸城代を経て海津城代となり、川中島の合戦で活躍した。「甲陽軍鑑」の原著者として知られ、その中に自分を評して「遁(に)げ弾正」と書いていることでも有名。

第35位 北条氏康 11
氏綱の子で小田原北条氏三代当主。信玄や謙信に一歩も引けを取らず、関八州の領土を守った。武蔵河越城の守将北条綱成の救援に向かい、十倍もの敵を蹴散らした河越夜戦の奇襲は戦国合戦史に名高い。内政面では税制改革を行い、北条氏の支配基盤を確固たるものにした名将。

第38位 木村重成 10
豊臣秀頼家臣。非常な美男子と伝えられ、大坂の役の際に井伊直孝軍と河内若江にて交戦して戦死、報に接した城内の婦女子は皆泣いたという。また徳川方の首実検の際に、兜の緒が切られ、さらに名香が焚き込められていたことから敵方の諸将にもその武者振りを賞賛されたという。

第38位 鍋島直茂 10 
斜陽の龍造寺家を最後まで支えた名参謀。今山の合戦において大友軍六万の大軍を佐嘉城に迎え撃ち、奇襲で先手大将大友親貞を討ち取ったことは有名。主家の滅亡後には巧みに秀吉・家康に取り入り、独立して佐賀鍋島藩の藩祖に。

第40位 宮本武蔵  9
二刀流の達人で二天一流の祖。佐々木小次郎との舟島の戦いで有名な生涯無敗の剣豪。奇矯かつ傲慢な性格と伝えられ、風呂嫌いで身だしなみに欠けていたことから仕官先が見つからなかったという。しかし晩年には客分ではあったが細川忠利のもとで禄を喰んだ。著書に「五輪書」、また画家としても名高い。

第40位 山中鹿介  9 
本名は幸盛。尼子家の勇将で主家復興に尽し奔走したが、上月城にて毛利軍の包囲に遭い、援軍の秀吉が兵を退いたため孤立し無念の降伏。この上は毛利家の当主・輝元と差し違えんと心中深く期したが、吉川元春に見破られ安芸国へ護送中に阿井(合)の渡で謀殺された。


第42位 服部半蔵  8
徳川十六将の一人。本名は石見守正成で、通称「大半蔵」。伊賀の上忍で本能寺の変の際、家康の「伊賀越え」を服部一族を挙げて護衛、無事国元に帰還させた。配下に多数の忍び衆を抱えて諜報活動で活躍するが、半蔵自身の実像は忍者というより槍術に優れた家康麾下の有能な戦闘指揮官であった。現在の東京「半蔵門」は、ここに彼の屋敷があったことからその名がある。

第42位 福島正則  8 
秀吉麾下筆頭の猛将で、左衛門大夫を称す。元は桶屋の倅とも伝えられる。「賤ヶ岳七本槍」の一人で、関ヶ原の大功により安芸広島城主に。直情家かつ酒好きで失敗も多かったが、純な性格は家臣からも慕われ、彼の軍勢は統制が取れ非常に強かったという。後に幕府より広島城無断修築の罪を問われて信州高井野村に配流、その地で没した。

第44位 尼子経久  7
清定の長子で伊予守を称す。事実上の出雲国守護で月山富田城主。個人的には「無欲の人」との評判で、相手が欲しがる物は何でも気前よく与えたという割には、大名としては徐々に勢力を伸ばし近隣諸豪族を傘下に組み入れ、一代で尼子家を山陰の大大名にのし上げた名君。

第44位 上泉信綱  7 
上杉家家老の箕輪城主長野業正を助けた上州大胡城主。剣術新陰流の祖で知られ、門下から多数の剣豪流派を輩出し、剣聖と呼ばれた。槍術にも堪能で、上州長野家十六槍の一人としても知られる。長野家滅亡後は武田信玄に招かれたが応ぜず、以後は一介の剣士として生きた。竹刀の発明者。
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第44位 佐竹義重  7 
義昭の子で常陸介、はじめ義廉を称す。「鬼義重」と呼ばれ恐れられた北関東・常陸の大大名。伊達政宗と四つに組んで戦った勇将で、根強い土豪勢力の抵抗に苦しみながらもこれを一掃し、江戸重通の水戸城を攻略して常陸一国を統一。また次男義広を蘆名家、三男貞隆を岩城家、四男宣家を多賀谷家に送り込んで嗣がせ、版図を飛躍的に拡大した。

第44位 真田信之  7 
昌幸の子で伊豆守を称す。幸村の兄で妻は本多忠勝の娘。家康の上杉討伐時に世に言う「犬伏の別れ」で父昌幸や弟幸村と決別し、徳川方に付く。関ヶ原の敗戦で切腹処分が当然の父や弟の助命に奔走、舅の本多忠勝(榊原康政・井伊直政とも)らの後押しもあり高野山配流にとどめた。これ以後は徳川家に忠節を尽くし、後の松代藩真田本家の祖となった。

第44位 真田幸隆  7
真田家の祖で、父は信濃小県(ちいさがた)の豪族・海野棟綱。謀略に非常に長けた智将で、初め海野小太郎を称した。信玄に仕えてからは山本勘助とともに村上義清や長尾景虎らとの幾多の合戦で戦功を挙げて信玄を助けたと伝えられ、陰の軍師ともいわれた。後に一徳斎を称した。

第49位 浅井長政  6
久政の長子で備前守を称した北近江・小谷城主。最初は賢政を名乗るが、後に長政に改名。信長の妹・お市の方を妻に貰い受け織田家との友好を深めるが、信長の約束違反とも言える朝倉攻めに際には情誼を優先して朝倉方に加担、信長の背後から攻めかかった。勇将の誉れ高く姉川合戦では奮戦するも三年後に信長の再攻撃を受け、三人の娘を城外に落とした後力尽きて自害。

第49位 足利義輝  6
室町幕府第13代将軍。上泉信綱に剣を学び「剣豪将軍」として有名だったが、当時畿内を牛耳っていた三好氏と対立、三好長慶の家臣・松永久秀らに御所を急襲され、後まで語り継がれる奮戦の後大勢によってたかって討ち取られた。

第49位 柿崎景家  6 
上杉謙信麾下筆頭の猛将で中頸城郡柿崎城・猿毛城主。和泉守を称し奉行職を務めた。永禄四年の川中島の合戦の際には先鋒騎馬大将を務め奮戦。北条氏康との越相同盟締結時には子の晴家を人質として小田原に送った。後に馬の売買に絡んで信長内通の濡れ衣を着せられ、越後水島の地で切腹。没年は天正二(1574)年説もある。

第49位 片倉景綱  6
伊達輝宗・政宗二代に仕えた重臣で、政宗の近侍かつ伊達家の総参謀長的存在の白石城主。戦いの際には常に政宗の側にあって助け、行政能力にも優れた知勇兼備の名将。政宗はもちろん秀吉や家康の評価も高く、家中からも絶大な信頼を寄せられた。

第49位 後藤又兵衛 6 
本名は基次。元黒田家の家臣で当主の長政と対立して出奔したが、新たな仕官先の大名家にことごとく長政から「奉公構い」が出されたため、乞食にまで身を落とした経験を持つ。大坂の陣の際は秀頼の招聘により入城、真田幸村とともに事実上の総大将格となる。夏の陣で道明寺にて激戦の末に銃弾を浴びて戦死。

第49位 島津家久  6
貴久の四男で義久・義弘の弟。通称又七郎、中務大輔を称す。串木野のち日向佐土原領主。猛将の名に恥じない活躍をした永吉島津氏の祖。有馬氏に加勢し、沖田畷の戦いで猛将・龍造寺隆信を討ち取る。秀吉の九州攻めの際に奮戦したが、ついには豊臣秀長に降伏。しかしその直後に亡くなったため、毒殺されたとの噂が広まった。

第49位 結城秀康  6 
家康の次男で通称越前中納言。容貌が「ギギ」という魚に似ていたため幼時は「於義丸(おぎまる)」と呼ばれ、家康からは冷遇された。剛勇の将として知られ、後に秀吉の養子を経て結城晴朝の養子となり、越前・若狭で七十五万石を拝領した。


第56位 佐々成政  5
通称内蔵助。信長の重臣で、本能寺の変後は柴田勝家に属し富山城を預かる。勝家と同じく秀吉嫌いで知られ、勝家滅亡後に秀吉に降伏。肥後を任されたが失政により一揆が蜂起、鎮圧に失敗して秀吉からその罪を咎められ摂津尼ヶ崎にて切腹した。

第56位 長野業正  5 
信濃守。関東管領山内上杉憲政の家臣で上野箕輪城主。名は「業政」とも書く。箕輪衆の筆頭とされる武勇の誉れ高い名将で「上州の黄班(虎)」と恐れられ、その死に至るまでついに武田信玄の自領侵入を許すことがなかったという。

第56位 新納忠元  5
島津義久・義弘を助けた島津家の重臣。菱刈氏との合戦をはじめ、多くの合戦に戦功を顕わす。また和歌などもよくした文武両道の名将で、「二才咄格式定目」を定める一方、その武勇で「鬼武蔵」と恐れられた。

第56位 三好長慶  5
「ちょうけい」とも読むが、「ながよし」が正しい。元長の嫡男で、利長・範長・長慶の順に改名。通称孫二郎、筑前守・修理大夫を称す。父元長の討死により十一歳で家督を嗣ぎ近畿管領細川晴元の執事から台頭、摂津江口に三好宗三を討ち実権を奪う。しかし嫡子義興ら相次ぐ身内の死と松永久秀の策謀の前に失意のうちに病死。一説にはこれら一連の相次ぐ死は久秀による謀殺とも。

第56位 最上義光  5
奥州最上氏第十一代当主の山形城主。謀略を尽くし、反目していた弟の義時や「最上八楯」と呼ばれる有力土豪天童氏らの邪魔者を一掃して当主の座をつかんだ謀将。後に出羽五十七万石の主に。


第61位 井伊直政  4
徳川家康の重臣で、徳川四天王の一人。武勇に秀で「井伊の赤備え」と聞くと敵はみな戦慄したという。後に近江佐和山城主。関ヶ原では西軍・島津家の退却時にその殿(しんがり)を務めた島津豊久を討ち取ったが鉄砲で撃たれて負傷し、その傷が元で2年後に死去した。

第61位 上杉景勝 4
中納言。長尾政景の子で謙信の養子となり、相続争いで北条家から来た養子の景虎を下し(御館の乱)家を継ぐ。小田原合戦の後、会津百二十万石の主に。豊臣家五大老の一人で寡黙な名君として知られるが、関ヶ原では西軍に加担し、戦後は出羽米沢三十万石に減封された。

第61位 宇喜多秀家 4
直家の子で通称八郎、初名は家氏。岡山城主で備前中納言と呼ばれ、豊臣家五大老の一人。朝鮮の役の際には碧蹄館の戦いで活躍。しかし関ヶ原で敗れて薩摩の島津家にかくまわれる。島津義弘らの嘆願により死一等を減じられ八丈島へ遠流となり、当地で病死するまで五十年を島で生き抜いた。

第61位 武田勝頼  4
武田信玄の四男で母は信玄に謀殺された諏訪頼重の娘。信玄没後に家督を嗣ぐ。猛将として知られたが、相次ぐ身内の離反や長篠の敗戦で武田家そのものが弱体化、織田・徳川両軍に攻め込まれ最後に頼った重臣の小山田信茂にも欺かれ、天目山の麓・田野にて妻子と共に自害した。

第61位 丹羽長秀  4
織田信長の重臣で通称五郎左、後に越前守を称す。地味ながらも実力を持った武将で、信長の下では「米五郎左」と呼ばれた。本能寺の変以降は秀吉の協力者として活躍、賤ヶ岳の戦功により若狭・越前・加賀半国を与えられ越前北ノ庄城主となった。

第61位 細川藤孝  4 
元は足利将軍家の幕臣で将軍義昭擁立時に活躍、後に幽斎の名で知られる。常に時の権力者の側について家を保った超一流の文化人武将で、教養が深く朝廷からも信頼を寄せられた。「百人一首抄」など多数の著書も残っている。

第61位 北条早雲  4
小田原北条氏の祖。備中伊勢氏の出自で(異説あり)はじめ足利義視に仕え、室町幕府政所執事から大名にまで昇りつめた戦国大名の典型。ちなみに早雲自身は伊勢新九郎盛時(長氏とも)を名乗り、北条姓は子の氏綱からである。

第61位 森可成  4
通称三左衛門。織田家家臣で美濃金山城主。主に諜報活動などを担当したことから、忍者上がりではないかとも言われる。元亀元(1570)年九月二十日、本願寺に呼応した浅井長政・朝倉義景に攻められ近江宇佐山城で戦死。享年四十八歳。


第69位 足利義昭  3 
室町幕府第15代将軍。13代将軍義輝暗殺時には出家の身であったが細川藤孝らの手引きで還俗し、信長に担がれて将軍位に就く。武力を持たない割に陰謀癖があり、やがて信長と対立して追放され毛利領備後鞆の浦に走り、これによって室町幕府は終焉を迎えた。晩年は昌山と称し、秀吉の御伽衆として仕え秀吉傘下の一武将として世を終えた。

第69位 上杉景虎  3
相模小田原城主北条氏康の七男で前名は氏秀。はじめ武田信玄の人質となるが、甲相駿三国同盟が破れて帰国後に今度は越相同盟締結により越後に送られ、上杉謙信の養子となり景虎を称す。謙信没後に家中を二分するお家騒動が勃発(御館の乱)、景勝と争い敗れて自刃した。なお、生年は1554年とも言われる。

第69位 宇喜多直家 3
和泉守。旧主の浦上宗景を謀略にかけて讃岐へ追い出し、備前・美作二国と播磨の一部を入手して独立大名となった。対立する相手を次々と仕物(暗殺)にかけ、実弟忠家をして直家の死後に「いつも兄にはおびえていた」と言わしめたほどの戦国屈指の謀略家。

第69位 甲斐宗運  3
本名は親直。阿蘇大宮司麾下の土豪で肥後御船城主。外交能力に長け、武勇面でも島津氏と敵対した際には敵先鋒の相良軍を撃破、大将・義陽を討ち取った。九州戦国末期の大友・島津・龍造寺勢力に挟まれ存続に苦慮していた小大名阿蘇家を支えた知勇兼備の名将。

第69位 九鬼嘉隆  3 
大隅守。信長水軍の総帥で、元は熊野の海賊とされる。大鉄甲船を操り毛利水軍を第二次木津川海戦で撃破したことは有名。関ヶ原の際に西軍に属したため責を取って謹慎、東軍に属した子の守隆の嘆願で助命が決定したが、その報が届く直前に自刃。

第69位 黒田長政  3
官兵衛孝高の嫡男で筑後守。松寿丸と呼ばれた幼少期は、信長への人質として長浜で暮らす。このとき荒木村重の謀反が起こり、説得に出向いた父孝高が有岡城に幽閉され、これを疑った信長からあわや処刑されそうになったが、竹中半兵衛の機知により救われたと伝えられる。関ヶ原では東軍に属し活躍、その功により筑前一国52万石の主となる。これ以後は忠実に徳川家に仕えた。

第69位 武田信繁  3
武田信虎の二男で信玄の弟。通称左馬助、(古)典厩を称す。父信虎は信繁を跡取りにしようと考えていたほど軍政両面に秀でていたと伝えられる。信玄はじめ家臣の信望も厚く、信玄の補佐役に徹した名将であったが、永禄四年の川中島の合戦にて奮戦虚しく戦死した。

第69位 長宗我部盛親  3 
元親の四男。兄信親の死により家督を相続。父と共に「長宗我部元親百箇条」を制定した。関ヶ原では西軍に属したため戦後に浪人、大岩幽夢と名を変え京の寺子屋の師匠にまで身を落とす。大坂の陣の際は主将格の一人となり冬の陣で活躍したが、夏の陣で敗れ斬首された。

第69位 藤堂高虎  3
和泉守。浅井氏に始まり徳川家外様筆頭となるまで7度も主家を変え、戦国を生き抜いた。先見の明があり処世術に優れ、いち早く権力者に取り入り戦国の荒波を泳ぎ切った伊勢・津二十二万石の主。築城の名手としても知られる。

第69位 馬場信房  3
美濃守、信春ともいう。はじめ教来石民部と称し、武田家の譜代家老衆の一人で信玄に重用された、軍政ともに優れた智将。長篠合戦では勝頼を諫めるが聞き入れられず、敗軍の殿を務めて勝頼を無事に退却させた後に戦死した。武田二十四将の一人。

第69位 北条綱成  3
名は「つななり」とも読む。相模の土豪副島(くしま)氏の出身で、人柄を見込まれ氏綱の婿(妻は氏綱の娘)に。戦場では地黄(じき)八幡と呼ばれる旗を背に、常に「勝った!」と叫んで突撃したという小田原北条家筆頭の猛将。

第69位 龍造寺隆信 3
肥前佐嘉城を本拠にした戦国大名。出家の身であったが曾祖父家兼の死により還俗して家督を嗣ぐ。猛将の評高く「肥前の熊」と恐れられたが、沖田畷の合戦で自軍の兵数の優位から楽観して油断し、島津家久・有馬連合軍の猛攻を受け乱軍の中で家久の家臣川上左京亮に討たれた。


第81位 明石守重 2
掃部助、号は全登(「てるずみ」または「なりとよ」とも)。宇喜多家家臣でジョアンの洗礼名を持つキリシタン。大坂夏の陣の際に大坂方の司令官として活躍したが、戦後行方不明に。

第81位 磯野員昌 2
北近江浅井家筆頭の猛将。姉川合戦では先陣を務め再三信長軍を脅かしたが、最後には降伏。信長を狙撃した杉谷善住坊を捕らえたことでも知られる。後に信長の勘気を被り出奔、晩年は近江国で帰農したとも言われるが以後の消息は不明。

第81位 今川義元 2
氏親の三男。太源雪斎に学び、異母兄である玄広恵探(げんこうえたん)との後継ぎ争いに勝ち(花倉の乱)駿河国主に。「海道一の弓取り」といわれ京風文化にも精通していたが、四万の大軍を率いての上洛途中に豪雨の桶狭間で休息中、織田信長勢二千による奇襲を受け戦死。

第81位 宇佐美定満 2
房忠の子、駿河守を称す。上杉謙信の重臣で越後琵琶島城主。天文四年上条定憲に味方して長尾為景と戦うが、後景虎(謙信)に仕えた。野尻湖にて舟遊び中に舟が転覆し、同乗の長尾政景とともに溺死。一説には謙信の命により定満が事故を装って政景を暗殺したともいわれる。

第81位 大内義隆 2
義興の子で大内氏第三十一代当主。周防山口に居を構え、西国六カ国を領し京風文化にも精通した文化人守護大名として知られる。しかしその政治があまりに文化面に偏っていたため、文官相良武任と対立していた武闘派家臣陶晴賢(当時は隆房)の反乱に遭い、長門大寧寺に追いつめられて自害した。

第81位 奥村永福  2
通称助右衛門、加賀前田家筆頭家老で末森城主。佐々成政の猛攻を寡兵で持ちこたえ、主君利家からも以後深く信頼された加賀百万石前田家の名臣。

第81位 可児才蔵  2
名は吉長。数家の渡り奉公の末、最終的には福島正則家臣。宝蔵院流槍術に長じ、関ヶ原の際には取った首に笹を噛ませ「笹の才蔵」の異名を取る。愛宕権現信仰が強く、自分の予言通りに死を迎えたと伝えられる。

第81位 北信愛  2
陸奥南部氏の一族で通称彦太郎、尾張守を称す。初め剣吉城主で後に花巻郡代を務め、松斎と号した。南部家重臣(家老)で、主に外交と頻発した一揆の鎮圧に活躍。信心深く、戦の際は常に観音像を肌身離さなかったという。

第81位 近衛前久  2
五摂家筆頭の近衛稙家の嫡子に生まれ、関白・左大臣に任ぜられて晴嗣・前嗣・前久の順に改名、後に龍山を称す。1568年足利義昭と対立して出奔、関白職を罷免された。「放浪関白」などといわれたが歌道・書道に長じ、京文化の地方伝播に貢献した。晩年は子の信伊と所領問題で不和となり、失意のうちに歿した。

第81位 榊原康政  2
徳川四天王の一人で、後に上州館林十万石の城主。関ヶ原の後に本多正信・正純親子と対立して次第に遠ざけられ、秀忠付きとなる。小牧の役の際、徹底的に秀吉を蔑みあざけった文言の立て札を立て、それが却って秀吉に感心されたというエピソードを持つ勇将。

第81位 佐竹義宣  2
義重の子で通称次郎、右京太夫を称した初代秋田藩主。最終官位は左中将。初めは水戸城主として父の跡を継いで常陸国五十四万石余の所領があったが、関ヶ原では家康の出陣要請に従わず軍を動かさなかったため、出羽久保田(秋田)二十万石へ減封された。

第81位 真田大助  2
幸村の長男で、母は大谷吉継の娘竹林院。諱は幸昌あるいは信昌と伝える。幸村の九度山配流後、同地に生まれる。大坂の役の際に幸村とともに大坂城へ入城して戦い、幸村戦死後の慶長二十年五月八日、豊臣秀頼に殉じて自刃した。法名「頤神院殿直入全孝大居士」。

第81位 島津貴久  2
伊作島津家忠良の子で、通称又三郎、陸奥守を称す。号は伯囿。知勇兼備の四人の子に恵まれ、本拠地をそれまでの伊集院から内城に移し、家督を義久に譲るまでの間にキリスト教の布教の許可や琉球との貿易奨励など積極的な外交を展開、島津氏の軍事・経済基盤を強固なものにした。

第81位 神保長職  2
慶宗の子で越中富山城主。天文十二年以来富山に築城して椎名長常と争い、越中大乱となる。一向一揆衆と親交があり一時上杉謙信に城を逐われるが、能登畠山氏の仲介で事なきを得てからは畠山義綱・謙信を奉じた。後に家臣団が分裂し長職は隠居、嫡子長住は京都で織田信長の食客となったという。

第81位 陶晴賢  2
興房の次男。大内家重臣で初め隆房と名乗り、尾張守を称す。吏僚肌の重臣相良武任との確執から主君義隆に謀反、山口大寧寺に義隆を攻めて自害させ実権を掌握する。しかし程なく毛利元就の謀略にかかり安芸厳島におびき出され、元就の奇襲に敗れて島内大江浦で自害した。

第81位 十河一存  2
名は「かずなが」とも。左衛門督・讃岐守・民部大夫を称す。三好長慶の末弟で、讃岐十河景滋の跡を嗣ぎ、同国十河(十川)城主となる。長慶の養嗣子義継の父。「鬼十河」と恐れられた猛将で、その独特の髪型は「十川額」と呼ばれたという。兄長慶・義賢を助けて各地を転戦活躍するが、永禄三年四月に若くして病没。一説に、瘡を病み有馬温泉への湯治途中に落馬したのが原因という。法名「劒翁活公(宗活)禅定門」。。

第81位 滝川一益  2
左近将監。信長の重臣で鉄砲に長じ、後に関東管領に。甲賀忍者上がりとの説もある。本能寺の際に北条軍と戦って敗れ、このため清洲会議では発言権を失う。後に秀吉に降伏、隠居先の越前大野にて病没。

第81位 鳥居元忠  2
忠吉の子で家康の幼時よりの譜代家臣。通称彦右衛門。関ヶ原の際には家康からの増援を拒否、留守居の伏見城にて西軍の雑賀孫一らの攻撃を受け、徹底抗戦の後戦死。一説には元忠自ら死を決して東下する家康と別れ、伏見城に残ったとも言われる。

第81位 蜂須賀正勝  2
尾張土着の乱波上がりと伝えられる謀将で、通称は小六のち彦右衛門、修理大夫を称す。秀吉の片腕で、藤吉郎時代からの参謀役として知られ、四国征伐までの大小数知れぬ合戦で活躍した。特に竹中半兵衛・黒田官兵衛らが秀吉に随身するまでは、多方面にわたって秀吉を助けた播磨龍野城主。

第81位 別所長治  2 
播磨国赤松氏の一族で三木城主。一度随身した織田家から毛利家へ寝返り、秀吉の兵糧攻めにも屈せず三年間耐えしのいたがついに力尽き、城兵の命と引替えに切腹した。

第81位 山本勘助  2
本名は晴幸、号は道鬼。武田家の軍師と伝えられる。川中島合戦で「きつつきの戦法」を考案するも謙信に見破られ、乱軍中に戦死と伝えられるが確かな資料はなく、架空人物説もある。


★以下の得票武将(五十音順):
秋山信友、蘆名盛氏、穴山信君、尼子誠久、安国寺恵瓊、池田輝政、今川氏真、植村家政、大友宗麟、織田信秀、鬼庭良直、飯富虎昌、片桐且元、河尻秀隆、北畠具教、吉良親貞、吉良親実、朽木元綱、黒川晴氏、香宗我部親泰、小西行長、酒井忠次、里見義弘、島津豊久、清水宗治、杉原家次、世良田二郎三郎、太原崇孚、伊達稙宗、津軽為信、筒井順昭、筒井順慶、徳川秀忠、鳥居強右衛門、芳賀高定、支倉常長、畠山義綱、畠山義総、服部小平太、塙直政、福留儀重、北条氏直、北条氏政、保科正俊、堀秀政、本多重次、舞兵庫、益田元祥、松井康之、松本図書助、的場源四郎、水原隆家、村上武吉、毛利新助、毛利隆元、母里太兵衛、森長可、六角定頼 各1

★武将以外の得票人物(五十音順):
石川五右衛門 正親町天皇 塚原ト伝 南光坊天海 ねね 曲直瀬道三 風魔小太郎 細川ガラシャ 三好清海入道 各1

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